Entries by yokichi

バレなければ良いという生き方

自分がやったとバレなければいいと思っている人はとても多いと思う。匿名だと失礼な人とかいっぱいいるし。 バレなければ、社会的な罰はない。バレなければ、許されない事も許してもらえる。 まあそうなのだが、はっきりいって僕はそんな人生をすごすのは嫌です。 まず、何度か書いてるけど、そもそもの僕の価値観の前提として、人生の価値とは、その人が生まれた世界と生まれなかった世界の差だと思っている。つまり、「僕」とは、「僕が死ぬまでに行った全ての行動が世の中に残した影響、変化、差の合計」である。それゆえに、僕の人生において重要な問いは、「結局、僕って、世界にとって生まれたほうが良かったんだっけ?」というものだ。 この考え方が正しいのかなんてことは知らないけど、死ぬまでに生み出した「差」こそが人生の価値であると考えるならば、「バレたかどうか」というのは自分の価値とは関係がない。バレずに「いい人」と思われていたところで、僕が生まれたことによって世界に悪い差を残したという事実は動かしようもないわけで、死んだときに「生まれてこなかったほうが世界にとっていい人間だった」という事実が残るだけである。 逆を言えば、誰にも認められなかったとしても、人を幸せにした人生にはすばらしい価値がある。誰のおかげか認知されていなくても、死んだ後の世界に小さな幸せが残っているならば、それこそが生きた証でしょう。優しい言葉をプレゼントしたり、人を喜ばせたりして、残された人がその良い事を広げてくれたとしたら、そこに残したポジティブな差は死後の世界にちゃんと残って人生の意味を形作ってくれると思う。そうやって少しずつ積み重ねていけば、きっと「生まれたほうが良かった人」になれる気がする。 バレなければ許される。他人に許されるかどうかで行動を変える。しかしそれで、差が消えたわけじゃない。息をはいても、人と他愛のない話をしても、そうしたものの全てが「自分が生まれた世界と生まれなかった世界の差」をかたちづくってる。そのすべてが僕たちが生まれた足跡としてバッチリ世界に残ってるんだよ。 だから、死ぬ前に、どんな足跡を残すか?そのとっても単純な問いが、僕にとってはとても大事です。「バレなくて許してくれもらえたからそれでいい」人生じゃ、死ぬときに振り返って、きっと耐えられないんです。 それが誰の足跡かわからなくても、そこに確かに残された足跡こそが自分だよ。足跡に名前が書いてなければ、その足跡でいいのか?名前が書いてあるかどうかが大事なのか?ちがう。大事なのは、どんな足跡なのか、だけだ。それなのに、足跡に名前が書いてるかどうかに支配されて、生き方を変えるのか。認められようと、認められまいと、自分が生み出す差が何かに神経を集中させることが、信念のある生き方であり、主体的な生き方なんじゃないのか。 というわけで、まあ思うところは色々あるのだけど、最終的に大切なのは、一度しかない人生が、「自分が生まれたことで世界に悪い差が残った」、というしょーもない人生だった・・・ということでOKなの?それで妥協できるの?ではなかろうか。そもそも、人間なんて不完全で、生まれだけでも悪い差を多少生まれるのは避けられないのだから、せめて、合計すると良いほうが上回るように気をつけるしかないわけで。まわりの優しい人たちにお世話になって生きてきた分際で、バレなければ許してもらえるからといって、のんきに悪い差を残して余裕かまして死んでもOKなほど、人生は安っぽいもんじゃない。 こんなしょーもない文章が、僕が一生会うこともない知らない誰かに読まれていたとしても、その差がすこしでも良いものであるといいな。

経験が情熱を生む

前回の検索ワードの発表で、「やりたい仕事がない」という検索ワードがあまりにも多かったので、今日はそれに関する、ちょー当たり前っぽい話を書いてみたい。 結論から言うと、僕の意見では、「やりたいこと」なんてのは、考えたってポンとわいて出てくるものではなく、自分の行動を通じた経験から、たまたま生まれるものだと思う。だから、悩んでもムダだと思うし、そもそも悩みですらないと思う。 突然だけど、すごく好きな食べ物ってあるよね。例えば、一時間列に並んでも食べたいものとか。でも、食べたことが無いものに一時間ならぶ努力するなんて情熱、ふつうないよね。だけどひとたび食べて好きになってしまえば、並ぶ努力が苦でも乗り越えられてしまう。 感情に関わるものって、大体そんなものだと思う。そうした、自分自身の直接の経験から生まれる感情(喜び、怒り、悲しみ)こそが、情熱をドライブするのだ。そして、その情熱こそが、何かすごい事をやる上での馬力を生み出す根源だ。逆に言えば、経験を伴わない、「思考」や「他人からの情報」によって情熱は生まれない事が多い。あくまで自分の経験を通じて、ハートがズキューン!と動くことが大事なのだ。 例えば、すごい情熱で英語の勉強してる人は、「論理的必要性に駆られている」、というよりは、「何気なく行った海外で、自分のあまりの英語の出来なさが悲しかったとか、英語ができる連中との差が悔しかったとか、英語ができない為にバカを見た自分に腹が立ったとか、片言の英語で友情を育んだことが嬉しかった」という人が多いと思う。仕事でもそう・・・例えば途上国援助の仕事としよう。人は、コタツでテレビみてるとき、「次のニュースです。今年、どこどこの国は貧困により何人が餓死しました。いやー大変ですね。はい次のニュースです。」というのを見て、「何だとぉ!そんな事は許されねえ!よーし途上国の貧困を解決するために残りの人生かけるぞ、どんな苦難を乗り越えても俺はやり遂げる!」とは、ふつー、思わない(すごい想像力がない限り)。むしろ、ある貧乏な国を旅している中で、その場の空気を吸い、その場の現実を自分の五感で体験し、現地の人と笑い、現地の問題を一緒に悲しむ中で、「この国の人々の笑顔が俺は大好きだ。でもこの国が抱えている問題は本当に難しいし、それを解決できないのは悔しい!みんなのために、俺には何かができるはずだ!」みたいに思っているからやっている人のほうが多いだろう。 で、こういう例で何がいいたいかと言うと、 「行動」せずして「経験」することはない。 「経験」なくして「感情」は動かない。 「感情」なくして「情熱」は生まれない。 「情熱」なくして「継続的に何かを続けるモチベーション」は生まれない。 「継続的に何かを続けるモチベーション」なくして、難しいことを実現することは難しい。 ということだ。 重要なポイントは、行動こそが、全ての出発点だということだ。後先考えずにいろんな行動をする人は、いろんなところで感情が動く経験をつんでいるため、いろんなことに情熱を持つことができる。裏を返せば、そもそも人間というのは、何も経験していないデフォルト(初期状態)では、モチベーションなんて、何に対してもぜんっぜん無いと思う。例えば、ゲームを一度もやったことも見たこともない子供が、プレステを買ったとしても、ロールプレイングゲームがやりたいのか、シューティングゲームがやりたいのかなんて、わからないだろう。同じように、一度も仕事をしたことがない学生が、医者になりたいのか、エンジニアになりたいのかなんて、わからないだろう。まして仕事をしたことがない学生が「やりたい仕事がわからない」なんてのは、僕には当たり前に思える。 なので、こういう相談を受けると、「すみませんプレステの本体を買ったんですけど、やりたいゲームがないんで困ってます」と言われてるように聞こえて、それ困ってないだろ!と思ってしまうのである。いいじゃん、別にやりたいことなんて無くても。やりたいことがないのは、困ってない証拠だよ。困ってるというのは、どうしてもやりたい事、やりたくない事がある人が、目的地に届いていない状態のことでしょう。そうやって苦しんでいる人の横で、「やりたいこと無いッス、困りました」と言われても、アドバイス不能です。目的地がない人は、目指さなきゃいけない場所自体が定まってない。右にいったらいいのか、左にいったらいいのかわからない。どっちがいいのかという情報を誰もくれない。だから、迷ってるだけだ。 しかし、人に聞いてもムダじゃないかな。右がいいのか、左がいいのか・・・つまり何に情熱を感じるかなんて、自分の心以外のどこにも書いてないんだから。自分でやってみて、好きなのがあるなら打ち込めばいいし、ないならないで誰も困らないし、適当にやっとけばいいじゃん。やりたい仕事がないなら仕事時間は「金のための我慢」と割り切ってプライベートを思い切り楽しめばいい。仕事は義務という意味で趣味のゲームとはちょっと違うにしても、どちらにせよ、「どうしてもやりたい事を見つけて選ばなければならない義務がある」もんじゃない。だから、「やりたいことがなきゃいけない」なんて事を悩む意味はあまりないと思う。(それでも悩む人が多いのは、大人になるまでは、親がモチベーションをくれていたからかもしれない。親が喜ぶことをすると自分も嬉しいとか、親の期待を裏切るのが恐ろしいとかも、立派な「経験を通じた感情」なんだけど、大人になったら自立しちゃうのでそのモチベーションは保てない。でも自立しきっているわけじゃないから、親以外の誰かに答を求めてしまうのだろうが、やっぱり人に聞くのはムダだと思う。) 一方で、引きこもって考えるのもやっぱり無駄でしょう。「経験」なくして「感情」は動かないと書いたが、感情に関するものは、戦略的に計画したり操作したりできない。どんな仕事が好きになるのかなんて、出会う前にはわからない。小学生が「僕は24歳で運命の人と出会い、26歳で結婚する計画です」といったらバカだと思うかもしれないが、これは、愛情を含め、感情の動きを事前に計画することは不可能だからでしょう。そこで無理やり戦略的に計画・操作すれば、後になってから、実はやりたくない事だったとか、実は結婚したくない人と結婚してたとかいうことに気付いて、苦しくなるかもしれない。 やりたいことが欲しいなら、「やりたいことがなければならない」なんて義務感を捨て、とにかく行動してみるしかないと思う。落ち着いた、自然な、素直な気持ちで、心をオープンにして、どんどん新しいことに挑戦しよう。いつかハートが動く経験と、偶然出会うまでは感情はピクリとも動かないと思う。でも、ひとたび出会ってしまえばハートはガーン!と打ちのめされて、いきなり勝手に目標が生まれてしまって、その目標を達成できていない状態が相対的に苦痛すぎて、そこから抜けるためにものすごいモチベーションが、自然と生まれるものだ。そう・・・それが恋・・・笑。そこに無理して戦略を持ち込もうとすると、目が曇るよ。焦りは、結論を早く与えてくれるかもしれないけど、大事なのは結論ではなくて、中身でしょう。 だから、ウェブ検索で答えを探そうとなんてしないでほしいんだよね・・・いやマジで。焦って、どこかに答えを探そうとする必要なんてないし、右に行ったらいいのか、左に行ったらいいのかわかんないなら、とりあえず行ってみて、自分のハートに聞いてみたらいいよ。すぐに答が出せなかったとしても、一番よくないのは立ち止まって考える事だと思うしね。 やりたいことがない、モチベーションが保てない。まあ、そんなもんだよね。それが全員の出発点だと思うよ。だからこそ、とりあえずパソコン閉じて、面白そうなこと、やってみようよ!その経験が情熱を生み出すならば、本当の悩みがそこから始まると思うよ。 動け!!!

検索ワード・ファイナル

はいどーも、お久しぶりです。根暗な皆さんと僕との愛の語らい、検索ワードのお時間であります。 このブログに、どういう検索キーワードでたどり着いたのかを求められないまま不定期に分析し、報告いたします。しかしこんなもの読んでも何の足しにもならないので、良い子は今すぐニュースサイトでも見ていなさい! 素人の皆さんは、参考までに前回の検索ワードをおさらいしましょう。どのように僕が個人攻撃を受けているのかわかるでしょう。もっと昔のは、2010/8、 2009/3、2009/5、2009/7、2009/10、2009/12などがあるが、全てが読むだけ時間のムダでしょう。 さあ、とりあえずトップ15の発表です。 愛の日記 古賀洋吉 ハーバード大学 ハーバード MBA ドラクエ人生論 (ツイッターでひまつぶしに書いた文章がなぜか5位) うつ病 自殺 (鬱病による自殺について書いた記事はコンスタントにアクセスを集めている) Zipcar 日本 (同社の日本戦略を僕が見ているからでしょう) Hult (ボストンのビジネススクールなのだが、遊びに行った記事を書いた) Linkedin 使い方 (特にLinkedInの使い方を書いたわけではない) HBS 日本人 すし太郎 (不朽のチラシがランクイン!) 愛の日記 ちぇん太 おめでとう (数年前の記事にまだリアクションがあるのか・・・) アクセンチュア 退職 MBA 受験 HBS Congratulations! (HBS合格レターを転載したからですね) うむ・・・相変わらず統一感なし! 特筆すべきはドラクエ人生論がなんと5位にあがってきたことだね。何気ないつぶやきだったが、日本の男達のハートに火がついたようだぜ!旅に出ろっ! あと、全米が泣いたすし太郎も堂々のランクインだ。 さて、今回も、変な検索ワードをいじっていきます。 僕とのコミュニケーション系 今回も、検索ワードで僕とコミュニケーションをとろうとするヤカラが多数発生しています。 古賀洋吉 知るかボケ   →知ってるだろ、検索してんだから。 yokichi.com 知るか   →だから、知ってるだろ。 古賀洋吉って誰  →誰だろう・・・ 愛の日記 今度この検索ワードについてブログでコメントお願い致します。   →・・・はい。 すし太郎 […]

北京に行ってきました

先日、中国の政府系イベントにスピーカーとして招かれ、観光がてら行ってきました。旅費全部出してくれるというので・・・。 シンガポールの時と同様、数日しか滞在していないので、今回も断片的な情報をもとに、独断と偏見に基づく意見を書きますので、ごめんなさい。 天安門ね さて、実は本土に行ったのは初めてだったのだが、すごい国だわ。中国。 まず驚いたのは、大気汚染が半端じゃない。まず天安門に行ってみたのだが、あまりに暗くて晴れてるのか曇っているのかもわからないし、まわりの建物は全部白く曇っている。 日にもよるみたいですが。僕がいたときはひどかったのかも。 昼間の太陽が、肉眼でオレンジ色に見えます。慣れてわかったが、太陽の輪郭がきれいに見えるときが「晴れ」ぼんやりしているときが「曇り」と見た。どっちでも暗さは変わりませんが。 注)昼間です で、週末に、万里の頂上に人間観察に行ってきました。 万里の頂上も白いなオイ。 まず、万里の頂上行きのバスが見つからない。政府が運用しているバスと同じ番号を書いた偽のバスがあるし。で、なんとかバスを見つけて列に並んでみたものの、バスのドアが開くとみんながみんな割り込もうとする。列に並ぶ意味がないな・・・とにかく、このままではバスに乗れないことに気づき、中国人を押しのけて割り込んでみました。この国ではいい人を気取っていたら、個体として弱すぎて生きていけないと思う。郷に入っては郷に従えだ、どけどけーい。 思うんだけど、相手を信頼せず、押しのける、というのは、善悪の問題ではなく、そうしないと生きていけない環境の問題だと思うんだよね。だってバスにすら乗れないならば、あなたは「いい人」つーか「弱者」になってしまう。あなたの前に割り込んだ人は、あなたに感謝なんてしてないと思うし。 さて。 万里の長城についたら、途中で「非合理的な大渋滞」が見受けられます。これを抜けるのはとても時間がかった。何もないところに、突然、全然進まない人間の渋滞があるのだ! 何が非合理的かって? おじさんが説明しよう! まず前提知識として、「人がいっぱいいたら、他人を押しのけて自分が最初に抜けられるように割り込むのが当たり前である」という文化を理解してください。 それを踏まえて、ではこの渋滞、どんな構造になってるのでしょうか? こうです。↓ 一般的な中国人の気持ちになってみましょう。人ごみを見たら、あなたはまず最初に、他人を押しのけて割り込むことに集中するのです。ちなみに、一番割り込みやすいのは、いちばん端っこの、反対方向の人がこっちに向かって歩いてる、ギリギリのところです。 では、あなたはこの図でいうところの下から上に上がっているとして、写真を見てみましょう。 左の壁際に、こっち向きに歩いてくる人たちがいますね。そして、僕の進行方向の人(青いストライプの人)の体の向きを見て下さい。このポイントでは、「われこそ人を押しのけよう」と反対方向と進行方向の間にどんどん割り込みが発生しています。こうやって、大人数に押しのけられた結果、反対方向の人は一人分の幅しか確保できなくなっています。 で、30分ぐらいノロノロと歩きます。 するといつの間にか、反対側から来る人の波に、今度は僕たちの方向が右の壁に押しのけられています。 流れの間にいるおじさん、およびその後ろの皆様は人にぶつかりながら無理やり割りこもうと努力中。イテテ 一人分の幅になると、早く歩けるようになるので、ひと段落。 はー、これで抜けられた・・・ しかしこの渋滞、そもそも意味ないですよね。 もしも、人々が割り込むのを遠慮していれば渋滞なんて起こらないわけです。たぶん、日本では決して起こらない問題。 ただし、個人で思慮深く遠慮してもこういった問題は全く解決しないわけで、集団が「割り込むのが非合理的だ」と思わない限りはこの渋滞は回避できない。中国人のみなさんはこういった非合理と日々直面し続けなければならないのだろうか・・・。これは文化の問題なので、変えるのはとても難しいだろうし、大変だ。 あとは、ゴミもすごかったねえ~ ごみの捨て方がすごい。みんな万里の長城からポイポイごみ捨ててる。 こういう、ごみが置けそうなところには、とにかく置きます。 ゴミ箱もありますが・・・見づらいですが、煙出てますね。そのうち発火すると思いますが、それも含めて小さな問題なのだろう・・・ というわけで、万里の長城に行っただけで、すごい勉強になってしまった。中国のスケールはすごいぞ、色々な意味で。 あと、他のところで思ったことは、何ですかね。例えば、 おみやげ物やさんには、Angry Birds (iPhone等のゲーム) のキャラクターのパクリ製品がものすごくあちこちにあるのだがぜんっぜん似てない。僕が作ったほうが100倍似てると思うんだけど・・・似せるのはそんなに難しくないと思うのだが、ちゃんと似てることに価値はないのかもしれない。ちゃんと似てたら訴えられるって?いやいやふつうにタグにAngry Birdsのロゴ入れてるし、訴えられるのなんて全然気にしてないと思うぞ。 繁華街の看板の英語は、単語が完結していない。書いている途中でスペースが足りなくなったのね・・・ちなみに、最後の一文字がEってのが意味不明だ。It’s incredibleと書きたかったなら I だと思うのだが、きっとそれも大した問題ではないのだろう。 子供はパンツもオムツもはいていない。 ズボンに穴が開いてます。コスト削減。 あと、トイレ=タバコ部屋と化している節がありまして、トイレは煙が充満しまくりです。 もはやトイレットペーパーホルダーと灰皿が融合してしまいました。 電車のプラットフォームから地下に降りる階段の前にはブロックがあります。なんだこれ。 想像するに、こういうのをおいて強制的に人の歩くスピードを落とさないと、階段で前の人を押し倒して怪我させたり殺したりしてしまうのでしょうな。 あと、屋台をよく見かけます。 ヒトデって食えるの? うーむ、よくわからないものがとても多い。 あと、市街地を歩いていて気になったのは、 […]

愛の新年会 2012

【申し訳ありませんが、申し込み者多数につき、受付は終了しました】 去年に引き続き、ボストン在住のみなさんでテキトーに新年会やろうと思ってます。今年も新年会のくせに2月です。 参加者は、ボストン周辺のさまざまな大学・大学院や医療関係者が多かった気がします。お子様連れも歓迎です。 ちなみに、COO(僕の相談相手)、CFO(会計)、CCO(Chief 調達 Officer/車必須)、CSO(Chief 掃除 Officer+掃除アシスタント数名)を引き受けてくれる人募集中。イベントや、食べ物・料理のサポートに関する提案も大歓迎です。 去年の新年会

原発というお化け

「原発は安全」「原発は危険」といった議論が続いている。双方もっともな意見だけど、いくら議論しても、平行線になると思う。 原発って、僕を含めて、多くの人にとっては怖いんだよね。これは客観的な危険度に基づく恐怖じゃなくて、「何だかよくわからないから怖い」という主観的な恐怖だと思う。そしてそれは、生物として、とても自然な、自己防衛のために備わっている本能的な反応なんだと思う。ちなみに僕は、人間は本能レベルの恐怖に最終的に逆らうことはできないと思う。 子供のころ、暗闇ってお化けが出るから怖いって思ってた。暗闇を恐れなくなるためには、自分が自分自身で電気を何度もつけることで、「あ、お化けは出ないんだ」と自分の肌感覚を通じて理解するしかなかった。大人が「お化けは出ない」と論理的に説明したところで、「そうか、だったら安全」とは子供は思わないし、「怖いものは怖い!」と逆に不安になるかもしれない。 こういうことって、世の中には多くあることだと思う。例えば日本の移民受け入れの話。「日本は人口が減るんだから、移民をつれて来い」という議論は、きっと論理的に正しいんだけど実行できないと思う。多くの日本人にとって、外国人というのは「暗闇の中のお化け」だから。外国人と多くの時間を過ごして、「実は外国人は怖くない」と多くの日本人が肌感覚を通じて理解するまで無理だと思う。海外に住んでた「大人」が、論理によって無理に推し進めようとしても、怖いものは怖い。 話を戻して、原子力とか放射能って、何回説明聞いても、どういう仕組みで危険なのか、よくわからないんだよね。まさに暗闇の中。原子力発電より車を運転するほうが危ないと言われても、たぶんそういう問題じゃない。車にはねられたら死ぬのはどういう仕組みなのか理解できるけど、放射能で死んだり子供が奇形児になったりする仕組みはがよくわからない。だから、やっぱり、どんなに「大人」である原発識者が論理的に説明しても、怖いものは怖い。 もし、原子力とか放射能というものが肌感覚で理解できるようになれば、ある程度怖くなくなると思う。核反応が、氷が水になるみたいに見てなんとなくわかるとか、放射能が色や匂いでわかるとか。原子力発電が「お化け」じゃなくなったら、きっと原子力発電の時代になるかもしれない。でも、無理だとしたら、きっと人類は長期的には原発の何だかよくわからない怖さに耐えられないと思う。そして、人類はきっとより新しくて、優れたエネルギーの源を探し続けると思う。まあ、今ある原子力は、長い人類の歴史の中でたった数十年しか使われていないし、「今あるベスト」に過ぎないし、きっとまだ「正解」じゃないよね。 結局何が言いたいのかというと、 暗闇に対する恐怖の反応がなければ、人類は早く絶滅することになるから、「一般人」にとって、よくわからないものが恐ろしいというのは本能的に避けられないし、生物として自然な防御反応だと思う。 一方で、そういう恐怖を克服し、科学的根拠や、論理的正当性によって行動できる「識者」がいなければ、人類は進歩しないと思う。 ただ、「お化けなどいないから大丈夫」「お化けがいたらどうする」といった、相手の立場を尊重しない議論をしても、お互いの考えを変化させることはできないと思う。きっと、原発を感覚的に理解できるものに変化させるか、原発以外の何かを見つけることが、僕たちにとって大事なんだと思う。 そんなわけで、原発に限らず、本能的な人や科学的な人が、相手の立場の違う人を不用意に批判したり見下すようなことがもっと減るといいなあと思っています。

明治大学 「留学のすすめ」 講演動画

去年やった明治大学の授業「留学のすすめ」で行った講演の動画がアップされているのに気づいたので、共有しておきます。 大学1年生ぐらいをターゲットに、留学についての考えを説明しているものです。留学に興味がある若いみなさんのご参考までに。ところどころ、明治大学しかわからないようなネタもありますが、それはお許しを。 ちなみにボストンで夜中の3時ぐらいからビデオ会議でやってたので、他の動画に比べると画質も悪いし音声も聞きにくいしテンション低いかもしれませんが、夜中の3時から講義させる明治大学が悪いと思います。 リンクはこちら!

新年のご挨拶

今年は喪中につき、寒中お見舞い申し上げます。 もう2012年ですね。アメリカに来たのが2006年ですから、アメリカ生活ももうすぐ6年です。そろそろ、日本の詳しい事がわからなくなりつつある気もしますが(笑)、今後も見捨てずにいて下さいね。 さてさて、ボストンの今年の冬は比較的あたたかくて、雪も積もっていないので、すごしやすいです。このまま暖かいことを祈るばかりです。 年明けは、暖かい南に逃亡することも考えましたが、結局娘が小さいということもあってあまり外出しませんでした。で、何をしたかというと、家族でずっと一緒に過ごしながら、大掃除ということでアメリカ生活でたまりきったモノを捨てまくり、ついでに「冬のソナタ」をついに全部見てしまいました!地味ですけど、楽しかったです~。 去年は結局ブログをほとんど更新できませんでしたが、今年はもうちょっと書いていきたいと思ってます、いまんところ。 今後とも、愛の日記をよろしくおねがいしまーす。 2012年1月3日 先日、ボストン・コモン公園にて

若者たち、ボストン来訪

最近、世界一周中という若者がよくGlobespanのオフィスを訪ねに来る。ボストンで働いている日本人は数が少ないので、必然的に僕のところに来ているのだろう・・・あるいは、僕はボストンの観光名所になってきてるのか?(笑) てなわけで、ちょっと彼らをご紹介。(会った順) 一人目は、太田 英基(おおた ひでき)君。 彼に受けた僕のインタビューはこちら。 インタビュー中ほとんどメモしてなかったくせに、お前よく書けたな・・・。 1985年生まれ。サムライ・バックパッカー・プロジェクトという、海外で働く日本人にインタビューしまくるというプロジェクトを立ち上げて、ウェブサイトやツイッターで情報発信中。ユウニ湖訪問の写真・動画はすばらしい。 二人目は、三好大助(みよし だいすけ)君。 1988年生まれ。僕が立ち上げた飲茶会に来てくれたという感じなので、インタビューは受けてません。今は世界一周を終えて、バングラデシュで現地大学生と共に教育ベンチャー立ち上げに挑戦しているらしい。気合入りまくりのまっすぐな男。ウェブサイトやツイッターで情報発信中。 三人目は、成瀬勇輝(なるせ ゆうき)君。 彼に受けた僕のインタビューはこちら。 。 早稲田大学5年? 彼はボストンにあるバブソン大学(アントレプレナーシップで有名)に一年通って、現在は「世界一周ノマド起業家の旅」を行っている。お辞儀するときに、角度と腕の位置が体育会系。ノマド、アントレプレナーシップの切り口から世界を旅する。ウェブサイトやツイッターで情報発信中。 四人目は、渡辺祥太郎(わたなべ しょうたろう)君。 1994年生まれ。世界一周ではないのだが、高校生iPhoneプログラマーだ。高校1年で「借金時計」というiPhoneアプリを作成。「借金時計を高校生が作る」というところがグッジョブすぎる。高校生で、一人でボストンに来て、うちのオフィスまで到達しただけでかなり凄い・・・。彼も、ウェブサイト、ツイッターで情報発信中。大学はMITに入りたいということなので、このタイミングでボストン視察にやってきた。 てなわけで、思うところ。 僕の感覚からすると、大学生など若い時は時間があるのだから世界一周するのが普通だし、高校生がMITを目指すのも普通だ。僕のまわりは、実際そういう人たちばかりなので、日本の若い人が内向きだとか言われてもさっぱりわからんのですが、僕のまわりがおかしいのでしょうか?(笑) しかし、ソーシャルメディアは、世界を小さくしたね。僕が20代の時は、世界のどこかにいっても、現地にいる人から直接何かを学ぶなんてできなかった。 でも、今は違う。ボストンにいると、ブログ、Twitter、Facebookなどを通じて、いろんな人からどんどん会いたいという連絡がくる。人脈なんて、すごく偉い親戚なんていなくても、自分で簡単に誰でも作れるようになったのだ。あとは、主体性、勇気と、「情報発信力」さえあればいい。 今の彼らの情報発信力はすごい。ウェブサイトも良く出来てるし、ツイッターも面白い。ちゃんと自分自身の中身で勝負して情報発信し、「面白い」とさえ思ってもらえれば、どこの馬の骨とも分からない若者よりよっぽど人と出会いやすくなるのだ。ちなみに僕の学生世代では、「情報発信力」なんて概念はほぼ存在すらしなかった(アグレッシプなタイプでも、せいぜい変な名刺作って自己アピールしてた程度)。これが、「進化」だなと思うよ。 というわけで、みなさんも、新しい時代を切り開く若きリーダーたちを応援してあげて下さい!

自分が一生やりたい仕事

先日、学生さんに「これが自分のやりたい仕事なのかわからない」という話をされた。でも、学生時代は、そういうものじゃない?全然、心配ないと思うなあ。 考えようによっちゃあ、たとえ新卒の大学生が「自分が一生やりたい仕事が見つかった」と言ったとしても、それは離乳食が終わったばかりの2歳児が「カレーの王子様は世界で一番おいしい食べ物である」というのと同じぐらいかわいい話かもしれないよ。それぐらい、普通は、「知っている選択肢の幅が極めて狭い時点でベストな選択肢を見つける」のはとても難しいものだと思う。 というのも、僕が新卒の時を思い出すと、そもそも世の中にどんな仕事があるのかも全然知らなかった。とりあえずいろんな事をやりながら、たまたま学生時代に働いてたベンチャー界隈が戦略コンサルティングやってた人ばっかりだったから、他に何があるのか知らなかっただけだった。まあ面接では知ったような事を言ったが、カレーの王子様レベルだったと思う。 その後社会に出て数年後、多くの人と交流するようになって初めて、世の中にどんな仕事があるのかが「実感として」わかるようになってきたし、学生時点の圧倒的な見識不足と世間知らずっぷりの中では、フィットした仕事を見つけるなんて、どう考えても無理だったことがわかってきた。 そもそも、ふつーに学力に合わせて高校や大学を選んできただけの学生時代の僕は、「無限の選択肢の中で、自分の人生に関して意思決定をする」という経験がなかった。こんな難しいことを、経験も必要な教育もない状態で、トツゼンやれって言われても普通は厳しいでしょう。 社会人だって難しいというのに、大学生や高校生の時点で、ずっとやりたい仕事が見つけるなんて、よほどの天才か何かじゃない限り、ほとんどの人には無理だと思うんだよね。そもそも、やりたい事がいきなり出来る才能があり、かつ実際にやってみても「やりたい」と思い続ける事ができるとしたら、相当ラッキーだと思う。ま、ぶっちゃけ普通は、気の迷いか、親に言われて適当に決めたとか、当時わかる範囲で決めちゃったとか、常人に関してはその程度の話が普通だと思う。 そもそも、一生やりたい仕事なんて、僕は今もわからない。成長するまで価値が見えてこない新しい世界というものがあるのだから、成長し続ける限りはどんどん可能性が広がり続け、新しい魅力的な選択肢について学んでしまう。そして、知っている仕事の種類も、世界が広がるにつれて、今後とも増えていく。そして、世界は想像以上に広い。 だから、僕の場合は、新しい発見の中で、死ぬまで自分の「その時点で知っている限りでの」ベストを探し続けていくしかないと思ってる。「今やっている仕事だけが全て」って思うと、新しいチャンスを見逃してしまうし、概してチャンスというものは、成長してからじゃないとやってこないし見えてこない事が多い。 だから、それなりにやりたい仕事をやるということ自体はできたとしても、そこで立ち止まらず、「もっとやりたい仕事は無いのか?」、という問いに、これからも、ゆっくりと、いつも悩んでいたい。 それから、人というのは、色々な人に出会ったり、色んな新しい事をやってみることで、自分のことがわかるようになる。「自己分析」なんて、内部を考えてわかるものだけじゃなくて、社会人として歩み続ける中で、外部からの刺激で少しずつ深まっていくものなんだと思う。新卒時の浅い自己分析が面接にどう役に立つかなど、まあ細かい話なんじゃないかな。 それに、目の前のことをがんばって、オープンな気持ちで学び続け、それで新しい挑戦に常に興味を持ち続けていれば、自然に次のドアが目の前に現れるものじゃないかな。現れなければ、それまでかもしれないし、それはそれでいいんじゃない?やりたいことがないなら、それはそれで重要な発見だと思うし。しょせん仕事だし。 だから、まだわからないなら、あせらず、ゆっくり時間をかけていけばいいよ。そもそも、「やりたいことがみつからない」なんて、大した悩みじゃないし。「プレステ買ったんだけど、やりたいゲームがない」って、相談されても、別に困ってないじゃん、って思う。それと一緒。困っているって言うのは、「やりたいことがあるのに、できない」って時じゃないかなあ。 ただね、「足るを知れ」なんて言葉と共に、よりよい人生を模索する努力をやめて、「今やっていることで幸せなんだ」と自己洗脳してしまえば、そこで終わりなんだ。新しいドアが現れても、自分で目を背けてしまう。だから、ぼくはそこはちゃんと考えて生きていきたい。大人ぶって、楽しい人生を諦めるなんて、僕は嫌だなー。 まあ、人それぞれ考えはあるだろうけど、僕個人はそういう風に考えている。人生、そんなに一発勝負じゃないよ。まして、まだスタートラインに立ったぐらいの時点でそんなに焦る必要はないんじゃない? (しかし、ナメちゃいけないけどね。スタートラインは決めりゃすむが、社会人生活ってのは、始まってからの成長と実績との長期的な戦いなんだ。いうなれば、就職活動は、「受験」ではなく、「予備校の選択」にすぎない。「気に入った予備校に入ったからTOEIC満点確実!」なんて話はないわけで、どんな環境にいようと、入った後の成長と実績だけが自分らしい道を作っていくということを忘れないでいたい。) てなわけで、まずはやってみて、ゆっくり自然体で悩み続けていけば、それでいいと思ってます。