国籍は税金で買う

前の週末は投資先で働いている友達と遊びに行ってきたのでそのときの話。

友達は、日本に帰化した中国人の方。帰化した理由は、中国のパスポートが仕事上あまり役に立たないからだとのこと。確かに中国の友達と海外旅行すると、その人のせいで僕らまで足止めを食らって面倒だったりするよね・・・。彼女は最初は取得が簡単だからカナダ人になろうとしたけど、カナダのパスポートは台湾などアジアに旅行するときに不便だから、結局日本のパスポートを選んだみたい。その気持ちはよくわかる・・・僕も日本国籍はそれなりに便利だから切り替えるつもりはないのだが、国籍なんてそのときの気分で何回でも変えればいいと思っているし、東京都の住民票を千葉県に移すのとはあまり変わらないと思う。

そもそも国籍というのは僕らが税金で購入している商品なんだから、国の価値は、税金一円当たりの満足度のリターンで決まるべきだし、政治家や、警官・
教員などの公務員のサービスの品質が気に入らないないなら別の国のサービスを買えばいいと思う。逆に、どうせ僕たちが買っているものはもとから輸入品ばかりなのに、国のサービスだけは黙って甘んじるしかないなんて変。もちろん現実的には簡単ではなくて、日本の場合は英語教育のレベルの低さ、海外に興味を持たせない報道、二重国籍の不認可などによって国籍の囲い込みしているから面倒・・・ナンバーポータビリティ以前は面倒すぎて携帯会社が変えられなかったけどそれに似てる。しかし、無理ではない。

国籍を変えると、故郷愛がないのかとか、自分を育ててくれた国に貢献しないのかとかいう話も頭をよぎるが、良く考えると一概にそうとは言えないと思う。国籍を変えたら故郷愛がなくなるなんて、人間の心はそんなに単純じゃないと思う。国籍がなくても、政治的にも、経済的にも、貢献なんていくらでもできるし、ユニークな立場だからこそ貢献できる事だってある。日本に育てられたのだから恩を返さないとと思うのもわかるけど、これも紙面で国籍の登録事項を変更すると、お世話になった人や環境に恩が返せなくなるとは限らないと思う。

逆に、日本国籍さえあれば日本に貢献しているとも思わない。実際、海外にいる日本人はとても日本のことを心配している人が多いし、日本のために海外からユニークな貢献をしたいと思ってがんばっている人多いのに、そういう人が裏切り者扱いばかりされて、何もがんばっていない日本人が許されるのはフェアじゃない気がする。

そもそも論だが、日本にばかり貢献するのが常に正しいとは思わない。逆に、日本さえよければいいという考え方をすれば、長期的には日本にとってもよくない気がする。むしろ、別の国の為に、あるいは世界の為にがんばる日本人が多少いるというのは、よいことだと思うよ。

かく言う僕は日本国籍のままだが、それは僕が国籍を変えたくなるほど魅力的な他の国をまだ知らないから、という理由だけ。日本に生まれたからという理由だけで、僕がたまたま日本にもっともフィットする人間だと信じるのは危険だと思っている・・・それだけ、世界は広いから。だから、僕も友達を見習ってフレキシブルに考えないとなー。特に子供が生まれてからは、日本の国籍を購入し続けるべきかは悩みどころだ。例えば、2050年には日本人の40%以上が60歳以上になるという中、大量の老人を支えるためにうちの息子は税金をがっぽり抜かれて幸せだろうか。僕個人は日本が好きだから耐えられるが、親としては息子にその考えは強制できないよねえ。

ロシアン餃子

仕事から帰ると、奥さんが餃子を作って待ってくれていた。

奥さん 「豚肉がないから海鮮、ニラがないからパクチーだけど。二人で食べよう」

僕 「お、いいね。頂きます。」

奥さん 「ひとつだけ、楽しいかなって思ってわさびがたっぷり入ってるの!私もうごはん食べたから、私が1つ食べるごとにあなたが2つ食べていいよ!」

僕 「(なんかフェアじゃないような気もするが・・・)おっ!楽しそうだねー。わかってるじゃないか。よーし、頂きます。うん、おいしい。」そして、2つ目を取ったその時。

ウッ!

Photo by 奥さん

僕 「うううう・・・かなり入れたな・・・」

そして奥さん 「なんだ、もう終わっちゃった・・・

さて、週末は散歩に行ってきました。

つかまり立ちができるようになったちぇん太。現在の身長は 0.85消火栓。

真っ赤な消火栓が気に入った様子。

ちなみにパソコンが大好き。こちらはちぇん太専用の小型VAIO。キーボードを打っているように見えますが、実はいつも剥がしていますのでこの姿を見て将来が楽しみだとかいうコメントはしないように。

「大恐慌の只中の今年卒業する、という辛酸をなめた方」との対談

どうでもいいけど、このブログのアクセスが最近増えたな・・・。

基本的に友達向けに書いてるブログなんでどこにもリンクをされないようにしていたしトラックバックもされないようにしているのだが、今月だけで65000ページも読まれており、TumblrとかTwitterとかHatenaとか知らない人のブログとかなんか色々よくわからないものからリンクされていてアワワ~。なんかプライベートライフ書きまくりなので恥ずかしいのですが僕は大丈夫でしょうか?

さて、Chikaさんとこのブログで僕の日記と一緒に「大恐慌の只中の今年卒業する、という辛酸をなめた方」ということで紹介されており、MBAアメリカ就活マニュアルを執筆したいたるちゃんと昨日電話で話しました。Kellogg Class of 2009で、なんか幹部候補プログラムに入ってアメリカ人と勝負している超人です。全然しらない人だったんだけどいい機会だと思って。

辛酸をなめた方というとおりかなり苦労したみたいだけど、話してみると、すごく前向きで、さわやかで、あっけらかんとしてて、頭の回転が速いひとだった・・・さすがあの時速200キロの文章を書いちゃう男(笑)。あと「分析バカ」の称号を与えたいぐらい分析的だった。キャリア論やリーダーシップへの考え方もしっかりあって、人生無戦略の僕からすると刺激的だった。スゲー。そんな感じで色々話し込んじゃったけど、やっぱり、同じようなことを潜り抜けた仲間という感じですごく親近感ある。「もっと夢を持てる人が増えたらいいのにね。僕たちでできることはがんばろう!」という話などしてました。MBAとる人には面白い人が多いから卒業しても色々楽しいなー。

今度会いたいねーという話になったので、ぜひいつか直接アメリカ就職とかをテーマに一杯やりたい。しかし、僕はお酒が全く飲めないので、無理かもしれない。よし、やめよう!

しかし、あそこまで詳細に就職活動プロセスを書くパワーは本当にすごい。ほとんど狂ってる。忙しい中でどこからあんな狂ったように詳細に説明できるパワーが来てるんだろうかと思うけど、MBAを取ってアメリカに残りたい、というこれからの世代の夢をよっぽど実現したいんだろうなーと思う。

できない理由を考えるほうができる理由を考えるより100倍楽(例:MBAなんて無駄という理由を考えるのはとっても簡単)な世の中で、ふつうに考えて不可能に近い事を独力で「マニュアル」に落とすという強引な姿は鬼神のごとし・・・。

ビジネス書が読めません

いわゆるビジネス書(300ページぐらいあるやつ)を最後までちゃんと読めたことがない。

2001年にコンサルティング会社に入ったとき、「コレ読め」ということで会社からマイケル・ポーターの「競争の戦略」などのいわゆる戦略本を色々と渡されたのですが、いまだに読みきれません。あまりのつまらなさに毎回挫折します。競争の戦略は特に「ヽヽヽヽヽ」がむかつく。あ、それ関係ない。いつか頭がよくなってビジネス書がすらすら読めるものだと思っていたが、一生無理なのかもしれない。

これは、たぶん世の中のあらゆることに1時間で飽きるのが原因だと思う。特に、RSS/Google/Wikipedia等で「能動的」に調べる作業に慣れてくると、300ページにわたってかかれたことを読みきるという「受動的」作業が全く耐えられず、すぐさま飽きて脳が文章を受け付けなくなる。

だから、ビジネス書を読むことはあきらめ、辞書みたいに「引く」ことにしよう。

ところで、直近一ヶ月で「古賀洋吉 でぶ」で検索した人が34人に達していますが、けっこう体重は落ちてきてるもんね。残念だったな!

通勤風景

7時のニュースです。

おととい、初めて息子が父が出かけるのを見てさびしがって泣いたとのことです。微笑ましいですねえ~。さて本日は全く何の脈絡も無く、通勤風景の写真をお届けしたいと思います。

家を出ると、右手にハーバードのメモリアルホール。

毎日、ハーバード大学の裏門からキャンパスを通り抜けます。もう卒業したというのに毎日大学を通るとは思わなかった。

あちこちに掲示板があるんだけど、ミノムシみたい。

この建物の前でハーバードの卒業式やったなぁ。

図書館らしい。卒業生だから使えるのかな・・・。

ジョン・ハーバード像。つま先をさわるとハーバードに入れるとかいうウワサで、みんなが触るのでつま先だけ金色のピッカピカ。朝は人がいませんが、午後になるとしょっちゅう人だかりが。

毎日ここを突っ切ります。

ハーバード流落書き。

そして、別の裏口から外に出ると・・・

ハーバード駅に到着。

ハーバード駅の中。ナイスカメラ目線・・・

電車に乗りまして・・・

これが通勤ラッシュだ!

ダウンタウン駅に到着。

これがダウンタウン。朝は人が少ない。

これうちのビル。

ビルの下にはダンキンドーナツ。

あとは、オフィスの窓からの景色でも。

チャールズ川。

ボストンの夜景もきれい。

以上、7時のニュースでした。

アメリカでの就職の話 (6): The Mind of Entrepreneur


というわけで・・・最後に雑感を書いてみます。

エリート人生どころか、失敗の連続の中でアップアップしながら生きている僕の姿にドン引きしている皆様や、「アメリカで仕事などやめよう」と思った皆様の姿が目に浮かぶようですが(笑)、今回のアメリカでの就職活動は、僕自身にとってはとても良い勉強でした。日本で同じ事をしたら仕事的にも生活的にもはるかに楽ちんだったと思いますが、むしろアメリカで色々失敗できたおかげで学ぶことがとても多かったと思います。

僕がシリコンバレーでであった経営者たちから学んだことのひとつは、なんというか、The Mind of Entrepreneur みたいなものです。起業家精神というか、「そんなものは成功しない」と毎日のように全否定されながらも実行に移す執念、失敗と挫折をひたすら繰り返してもダメージをうけない屈強なハート、だめならだめで後ろを振り向かずさっさと次の手を考える前向きさです。「まず無理だがもし実現できたらすごい」という事に挑戦してしまう空気の読めないバカがいないとイノベーションはおきないのだと思いますが、そういう意味では成功している起業家の話を聞くと彼らバカっぷりは僕などとは比較にならないほどとてつもないと思います。僕は、そういう心をもった人が好きなので、そういう風に、鮮やかに生きていけたらなと思います。

「アメリカで働いてみたい!」なんてうわごとはエリートコースの人にしてみたら馬鹿が失敗しに行っているようにしか見えないでしょうが、日本を出たいなどと空気の読めない事を言ってしまう人はそもそもエリートコースで生きていく気がないんだと思うので、僕はアドバイスを求められたら「大変だろうけど、夢を実現したいならがんばってみたら」と言う様にしています。日本では、一流の大学を出て一流の就職先に入らなければならないという鬱陶しいレール重視の風潮がありますが、そんなこと言ったらほとんどの人が息苦しくなっちゃいますから、レールに乗り損ねても自分らしく笑って生きていくことのほうが大事だと思います。その先がアメリカだろうと何だろうと。

「日本に帰らない覚悟がないならアメリカに行くな」とかいう声もありますが、これは「険しいがレールはしかれている」、つまりがんばれば何とかなることが確実な人生を生きている人の考え方です。冒険者に必要なのは、帰りの食料(引き返す覚悟と準備)と、先に何も無くても笑い飛ばす頭の悪さではないでしょうか。「背水の陣」という言葉も違和感があります。背後にあるのは自分で作った水溜りぐらいでしょう。失敗して帰国しても、アメリカで挑戦したせいで人生めちゃくちゃになったなんて言い訳を聞いたことがないし、そんなに大失敗だとは思いません。無責任ですが、やってみて後悔するかどうかは、自分に聞けばわかるはずです。Follow your heart.

あとそうだ、最後に。就職というのは、自分の実力の話というより、他人との関わりの話です。僕がアメリカで就職活動をしている際には、信じられないぐらいに多くの人(含む家族)が僕の相談に乗ってくれたし、励まして勇気付けてくれたし、心配してくれたし、夢を持たせてくれたし、そして、仕事もくれました。仕事をくれるのが他人である以上、どんなに偉そうな顔をしている人も、就職というのは他の人に支えてもらう事が必須なんです。だから、そもそも難しいアメリカでの就職活動をしたいなら、たくさん人を頼って、たくさん人のことを大切にすることが、最初の一歩かもしれません。

というわけで、なんかえらそうな事をいっぱい書いてしまったのですが、アメリカの就職に興味がある皆さんの参考になれば、幸いです。

連載おしまい。

P.S.

今後は単なる日記に戻しまーす。こういうのを書くタイミングをくれたChikaさん、ありがとうございました。

アメリカでの就職の話 (5): 転職

家を出て行くことにショックを受けている同じ日に、面接していたベンチャーキャピタルのGlobespan Capital PartnersにいるHBSの先輩からも電話が来た。どうも、Globespanのトップとの電話が週末明け(3日後)の月曜日に入ったらしいが、「この不景気で人を増やすべきか」という話が社内にあるので期待できないと言われた。

しかし、どちらにせよすでに9回裏でツーアウトなので、これが最後の勝負。万が一内定をもらえたときに備えて戦いの準備が必要である。アメリカのベンチャーキャピタルのパートナーというのは交渉のプロ中のプロであり、超強敵なので条件交渉にはかなり周到な準備が必要。相手が切ってくるであろうカードを想定して、こちらが切り返すカードをある程度決めておく・・・例えば「不況だからMBA卒の平均給与は下がっているはずなので○○ドルが妥当」ときたら「2008年と2009年とのオファーの平均額は○%しか変動しておらず、ベンチャーキャピタル業界の給与平均についても○%しか変動していないのでフェアでない」と切り返す・・・といった細かいシミュレーションを繰り返し、ロジックとデータをガンガン組み立てていく。

ついさっきの「家でてけ事件」で精神力が残されていない僕がこの集中力の要る作業をするのは難しく、どうせ内定なんて出ないとさじを投げて箱根の温泉にでも行きたい気分だったが、箱根は遠いので最後の力を振り絞る。

週末かけてノートにびっちりと戦略を用意して挑んだ月曜日、予定通り電話が来た。

ここが勝負。さすがの単細胞・能天気な僕もこの瞬間は本気になった。

夢のような仕事を手に入れるか、諦めて日本に帰るかの二つに一つ。どちらになるか、全くわからないが、悔いの無い戦いをしよう。

がんばろうと、ノートを準備した。

そして・・・

オファーの内容は、満足のいくものだった。そのノートは、全く使うこと無く、終わった。

4月の頭に家を30日以内に出て行けと言われていたが、僕たち家族はそれより前の2009年4月末、友達が沢山いるボストンの町に引っ越した。

あれから数ヶ月たったが、おかげ様で今は信じられないぐらいに楽しい仕事をさせてもらっている。HBSの教材に出てきた起業家達と密接に仕事をし、取締役会に出たり、ファンドレイジングを手伝ったりしながら、苦楽を共にするのは本当にエキサイティングだ。それに、アメリカのテクノロジーを日本に展開させ、日本で雇用を生み出し経済を活性化できるようになりたい。

でも、アメリカのキャリアというのは、日本人の感覚と違い、「どこで働いているか」ではなく「何ができたか」なので、まだ何も目標は達成されていない。むしろ、勝負はこれからだ。新しい業界、新しい仕事というプレッシャーの中で、自信がもてるようになるまで、がんばりたいと思う。

と、いうのがここ一年のアメリカでの就職のお話でした。

つづく・・・次が最終回

アメリカでの就職の話 (4): ついに家も失った

失敗の準備を整える

最初の頃は、さすがの僕も食欲が減った。朝起きると、あ~、これ全部夢だったらいいのになぁ、と思ったり。

今まで、経営コンサルタントとして、業務効率化の仕事もしたことがあるが、少なくともHBSを卒業して一瞬で自分が切られる側になるとは想像もしていなかった。レイオフされる痛み、明日行く会社があるということの有難さ、給料が口座に振り込まれるという事の有難さなど、今まで全くわかっていなかった。でも、こういうのって、とっても大事な感覚だと思うし、きっとプラスになる日が来る。

グダグダしていてもしょうがないので、今後のことについて考えた。しばらくしたら、考えれば考えるほど、大した問題ではないように思えてきた。ビザがあるうちに仕事が見つからなかったら僕の力不足なんだから、日本に帰ればいいじゃないか。別に今すぐアメリカでテクノロジーのベンチャーの仕事が見つからなくても、そのうちどうにでもなるでしょ。健康保険は、カリフォルニア州が失業者に提供する割高の保険を全額自分で払えばとりあえず何とかなるじゃないか。借金なんて、人の2倍以上働けばいつか返せるじゃないか。どれも、大した問題ではない。生まれたばかりの息子はかわいいし、奥さん元気だし、みんな健康だし。それに、この不況下でレイオフとかいうのはいい話のネタになるし、このピンチを切り抜けたら自信がつくに違いない。

僕は、まず、色々な弁護士と会い、移民法についてのリサーチをかなり綿密に行い、いきなり完全レイオフになった時に就労ビザを観光ビザに切り替えられるように、全ての書類を整え、サインし、封をし、あとは全部失敗したら書類をポストに投函できるだけにした。ヨーシ、失敗の準備は整った。あとは、失敗しない時にのために努力するのみ!

就職活動がこれまた楽しい

この不況下では、アメリカ人でも再就職に半年かかるみたいな話を聞いていたので、自分の場合はもっと苦戦するかもしれない、ということで、まずは動くより先に、人に相談してみることにした。

シリコンバレーにいる人は、アメリカ人も日本人もカッコいい人が多いので、そういう皆様に相談をして回っているだけでも最高に面白かった。どハマりしている僕の状況を聞いて、とにかく素晴らしい人たちが、親切にも貴重な時間を僕のためにさいてくれた。こういう貴重な経験ができるのも、この大不況のおかげ・・・。毎日が成長を実感する素晴らしい日々だった。それに、こういうピンチになると、家族、友達、知り合い、会社の仲間、多くの人が支えてくれる。こういう人たちがそばにいる事ほど、幸福なことはないと、日々感謝。

ところで、「なんだかあまり面白いベンチャーはないんですよ・・・」なんて相談に、いつもとても親身に乗ってくれていたのが、他でもないGlobespan Capital Partnersのみなさんで、事あるごとにいろんな人を紹介してくれていた。Globespanは僕のオフィスから徒歩3分ぐらいの超近所にある、アメリカでけっこう有名なベンチャーキャピタルで、シリコンバレーに二人しかいないHBSの日本人の先輩のうちの一人がいらしたので、よく遊びに行っていたのだ。

僕はベンチャーキャピタルで働く気はなかったので全く自分を売り込んでいなかったのだが、相談しているうちに、いきなり「うちのボストンオフィス、受けてみる?」と言われた。よく話を聞くと、投資先のテクノロジーベンチャーの世界展開という、まさに僕がやりたいと思っていた仕事だった。こんな面白そうなことをやっているベンチャーキャピタルがあるとは。とはいえ、ベンチャーキャピタル業界はかなり苦しい状態にあり、どこも縮小モードであるとは知っていたので、そんな時にこんないいところに入れるなどとは期待していなかった。ちょくちょく面接しにGlobespanに行きつつも、他の活動も進めていた。その後、Globespanからは結果の連絡がなかなか来ず、やっぱり無理でしょ、と思って、引き続きテクノロジーベンチャーと話をしていた。相変わらずscanRでの仕事は続いており、色々マーケティング調査を行っていた。

ついに住む場所も失った

就職活動を開始して3ヶ月ほどたった4月の頭、とある金曜日の午後、大家さんから電話があった。

「不景気でアパートに人が入らないから家を改築することにしたので、30日以内に出て行ってくれ」

・・・ハ?

カリフォルニア州の法律を調べると、大家は理由を問わず住人を追い出してOKということになっていた。うーむ、さすがリベラルな州カリフォルニア!

どうやら冗談ではないようなので、ついに住む場所もなくなることが決定。

やっぱり、家というのはとても大事。仕事先が見つからないのに次の引越し先なんてわからないわけで、30日以内に満足のいく引越し先を見つけて全部荷物を引っ越すなんてかなり難しいわけで、引越しにもかなりのお金がかかるわけで、家族にも大きな負担がかかるわけで。さすがにここまでピンチになったら、これはタイミング的にここで帰れってことでしょう、と思った。そして、帰る準備のためにビザの手続きの準備を始めた。

つづく

アメリカでの就職の話 (3): レイオフ

日本人の感覚からするとわかりにくいが、シリコンバレーのベンチャーにとってレイオフを行うことは風邪を引くぐらい日常的なことであり、会社の財務状態が悪化すれば翌日ばっさりレイオフする。こういう前提なのでレイオフされた人は意外とけろっとしたものだが、僕の場合には色々と面倒な問題があった。例えば・・・

  • 滞在ビザがない:永住権の手続き中につき、まだ就労ビザ(H1-B)の状態。H1-Bでレイオフされると翌日からビザが無くなるので基本的にすぐ帰国しなければならない。
  • 飛行機に乗れない:新生児の息子はまだ免疫注射をできないので飛行機に乗せられない。
  • 健康保険がない:レイオフされると健康保険が切れる。
  • 次の仕事が全然なさそう:ベンチャーのほとんどがレイオフ中なので、採用している会社は急減してしまい、仕事先が圧倒的にない。しかも、景気回復の見込みは数年先。

特にビザの問題は深刻だった。レイオフが日常的であるベンチャーで働く以上、ビザで困らないように永住権の申請を急いでいたのだが、就職直後から永住権取得までの一瞬のスキに不況の直撃を受けるとはさすがに想定していなかった。

レイオフ発表後の会社へ

月曜に会社に着くと、レイオフになる仲間たちは、荷物をまとめ、CEOからレイオフの経緯について話を聞いて、残るメンバーにお礼のメールを書いてから、オフィスを去っていった。プロダクトマネジメントのバイスプレジデントに、「次、どうするの?」と聞いてみたら、「さあ、こうなるとは思っていなかったから、次のことは全然わからないね。んじゃまた!」と笑顔で答えて去った。

僕はCEOのRudyにこう言った。「会社にとって重要なのは資金。僕にとって重要なのは家族が不安なく住めるビザ。だからこうしよう。僕は就労ビザを維持できる最低賃金で今後も働く。仕事はあるんだから僕がいたほうが会社にとっても便利だろうし、資金繰りが回復したらフルタイムに戻すという選択肢もお互い持てる。」Rudyは息子が生まれたばかりの僕がビザを失うと困ることを知っていたので、こう言って条件を受け入れてくれた。「わかった。こういう先が見えない状態では、何も約束することはできない。でも、俺がクビにならない限り、1月末までは雇用できるようにがんばってみる。その先は、わからない。」

いつも強気なRudyも、さすがにこの日はすっかり元気がなかった。これまで苦労して作り上げたチームが去っていくのはCEOにとっても辛いことに違いなかった。きっとすごく怒った人もいただろう。僕が「全然気にすることないよ、タイミングが悪かっただけで、Rudyが悪かったわけじゃないのは良くわかっているから。」と言ったら、Rudyは「雇用にはすごく慎重だっただけに、こういう状態になったのはとても残念だ。こういう状況では自分のモラルを保つのが本当に大変だが、こういう時にこそ、経営者の手腕が試されるんだと思う。俺には全て正直に説明することぐらいしかできないが、できることはちゃんとやっていくよ。」と答えた。僕は「Rudyはチームにいつもすごく良くしてくれているよ。ここはとてもいい会社だし、今でも、このチームの一員になれてうれしく思ってる。」と答えた。Rudyは涙ぐんで、僕に握手をして、オフィスを離れた。

ビジネスメンバーの席が集まるオフィスエリアはすっかり静かでさびしくになってしまったので、僕はそれからほとんど毎日会社に出勤し続け、頼まれてもいないが仕事をしながら転職活動を始めた。

というわけで、形式的には完全レイオフではないものの、事実上はレイオフ状態。1月末まで雇用が持つのか、持たないのか、その先どうなるのかもわからない。100年に一度の不況などといわれるまっただ中で、スタート地点よりはるか後ろの再スタートとなった。うーん、それなりにピンチ。

でもまあ、所詮仕事ですから!

つづく

アメリカでの就職の話 (2): 金融危機

3日で就職活動が終了

シリコンバレーに引っ越した3日後に、アーリーステージのモバイルベンチャーから、マーケティングディレクターの内定をもらった。

引っ越した直後に、マーケティング副社長のChrisから「今何してんの~」とメールがきた。この会社はHBSの先輩経由で紹介された会社で、TrinityやTrueなどのトップベンチャーキャピタルやAdobe等に出資を受けていた。僕は「モバイル・マーケティング・日本」という、強みを活かした仕事をしようと思っていたので、年初から日本展開の相談に乗っていたのだが、それが功を奏した。条件面も悪くなかったし、マネジメントチームも経験豊富だし、Chrisも信頼できるし、すぐに永住権を申請してくれるという事だったので、そこに決めた。その2週間後には他にもVP Business Developmentで別の会社から内定をもらったが、そちらは辞退した。そもそも一ヶ月で健康保険が切れることもあって、7月中に決めねばならなかったし、面白そうな仕事だったので、7月31日にオファーにサインした。

なお、内定辞退したボストンの会社が勝手に出してくれていた就労ビザが転用できることが判明した(ビザの問題は複雑なので割愛するが、これはかなりラッキー)。内定を辞退し無職で卒業する羽目になった時は「最低の出来事だ」と落ち込んだが、振り返ってみると、あれは最高の出来事となった。

と、ここまでは調子が良かったのだが、問題はここからだ。就職してすぐに、金融危機がベンチャーおよびベンチャーキャピタルの業界に大打撃を与えることとなる。

金融危機がシリコンバレーを襲う

金融危機の影響が急激に深刻になってきた。大手ベンチャーキャピタルのセコイア・キャピタルが、「R.I.P.: Good Times (楽しい時代よ 安らかに眠れ)」というタイトルでプレゼンしたことが話題になった。ベンチャーが資金調達するのは当分無理なので、人を解雇せよと全投資先に通達したのだ。

その頃、僕が働き始めてばかりで、引越し作業も落ち着いて、少し仕事に慣れ始めたところだった。11月には息子が無事に誕生し、みなに祝ってもらっていた。

ところが、産休から会社にもどると、会社の財務状態はすっかり変わっていた。11月までは売上の調子がよく、大きな案件をどんどんもらっていたのだが、11月に入って、なんとほぼ全ての大手の取引先が不況を理由に契約中止を通告してきた。実際、全ての取引先は急遽大規模なレイオフを発表し、完全に投資凍結状態になっていた。

しかも、うちの会社は運悪く資金調達のタイミングだった。それまで資金調達の準備はとてもうまくいっており、11月頭には投資契約にサインするだけの状態だったのに、急に全てのベンチャーキャピタルが投資抑制モードに入ってしまったのだ。Adobeも数千人のレイオフを発表しており、投資どころではなかった。

そして、週末に誕生日を控えた12月5日の金曜日に、僕を雇った上司を含め、ビジネス側の人間(マーケティングやプロダクトマネジメント)ほぼ全員のレイオフを発表した。

人生ってわかんないなぁ・・・と、ぼんやり考えているうちに僕の誕生日は過ぎ去ったのでした・・・。

つづく