人間の価値は平均とのずれから生まれる

あなたが、一番すきな食べものは何ですか?

それが世の中で一番おいしい理由を、論理的に説明してみてもらえますか?

そして僕を説得してみてください。それが僕にとっても世界で一番おいしいと。

絶対無理だから。

あなたが、一番すきな人は誰ですか?

その人が世界で一番魅力的である理由を、論理的に説明してみてもらえますか?

そして僕を説得してみてください。その人が僕にとっても一番魅力的であると。

絶対無理だから。

あなたが、一番やってみたい仕事はどんな仕事ですか?

その仕事が世界で・・・(略)

はい無理。

本当に自分を幸せにする事のほとんどが、論理的には説明できないと思うし、むしろ、論理的に証明できるなら、別にあなたがやる必要はないと思う。

好き、嫌いって、根拠もなく人によって違う。だからこそ、世界は鮮やかで素晴らしい。

人を笑わせるのが好きな人、困った人を助けるのが好きな人、人を支えるのが好きな人・・・いろんな人がいる。

そして、好きこそものの上手なれ、ということで、好きなものというのはみんな楽しく、上手になるものだ。好きな事をしている人は生き生きとして、輝いていているものだ。

僕は、人の価値は、そういう、論理的には説明できないけど、ただそこにある、平均的な人間とのしかないと思っている。そのあなたらしい「差」を、育てなければならない、と思う。あなただからこそ笑える、そして素敵だって思えることをやることで、あなただけが生み出せる「差」を世の中に生み出さなきゃいけない。

あなたが、あなたらしさに着目せずに、「平均的な人間であればやるであろう事」しかせずに死んでいくのであれば、あなたはこの世に生まれても生まれなくても世界にとって一緒である。それと同時にあなたはあなたの生まれ持ったすばらしい価値を捨てているに等しい。(注: 何をしても平均的な人など存在しない。よって、すべての人に生きている価値がある。)

あなたが笑う瞬間がある。それは、きっとほかの人と少し違う。まさに、そこがあなたの素晴らしいところだ。理由はどうでもいい。とにかく、その瞬間がいつなのかを、見逃してはいけない。あなたのパワーの源泉がそこにある。あなただけが生み出せるすごい価値を作り出すエネルギーがそこに眠っている。

いろんな人の相談にのるが、そういう素晴らしいところを忘れている人が多い。ちょっと話を聞いただけで、こんなにいい所がたくさんあって、素敵な人なのに、どうしてそんなに他人の目を気にして恐れながら暮らしているんだ!と。好きで得意な事がいっこもない人なんて世界に絶対にいないのだが、好き嫌いの激しいひとに限って、嫌いな事ができないことのコンプレックスですっかり弱ってしまっている(個性は、人によっては良く見えたり悪く見えたりするだけ。すべてひっくるめて、すばらしい「あなたらしさ」である)。かわいそうに、自分が自分の素晴らしさを忘れて、自分を見捨ててしまっただけである。思い出さなければならない。自分が輝く瞬間がいつなのかを。

どんな小さな事だっていいんだ。あの人に料理を作って出した時に、おいしいって喜んでもらえるのが最高に嬉しいんだとか。そういうのだってあなたらしいではないか。もちろん、大きな事だって素晴らしいよ。世界で飢えに苦しむ子供たちを守るために途上国開発に心血を注いでいる瞬間が満たされるんだという人もすばらしい。でも、他人からみたスケールはいい。どんな事であろうと、ハートが動くその瞬間を、決して無視してはいけないんだ。

他人の声を聞いてはならない。自分らしさを探すためには、石にかじりついてでもこだわって、自分の心の声を追い求めなければならない。

しつこいけど。

あなたが笑う、あなたの瞬間、それがあなたらしい、あなたの価値だ。

その、あなたの価値を、価値感を、育てなければならない。

そして、あなただけが残せる、あなたらしい「差」を世界に残さなければならない

人間の価値とは、その人が生まれた世界と、生まれなかった世界の差だと思うから。

いいんだ、人と違って。そのズレがあるからこそ、あなたには生きている価値があり、あなたにはすごい可能性が秘められているんだから。

「若者が終身雇用を望んでいる」について

2009年度新入社員の会社生活調査 by 産業能率大学 より 抜粋

終身雇用制度を望むか聞いたところ、73.5%が「望む」とし、調査開始以来、初めて7割台に乗せ、過去最高となりました。

さっき書いた「グータラな僕は、守れらたら弱くなる」で終身雇用について触れたから思い出したんだけど。

終身雇用って、戦後の数十年という一瞬の間の日本が調子良い(人口も増え、経済がすごい勢いで成長していた)時代に、多くの企業が将来は予測できると勘違いしたときの遺物。別にそんなに「日本的雇用環境」じゃない(当時海外にそう呼ばれただけ)。そんなモン、いまのように明るい将来が予測できなくなったら成り立つわけがないですな。むしろこの時代に、将来が予測できるといまだに思っているニブい企業が今後一番あぶないと思うんですけど。

にも関わらず、若者が終身雇用をしてくれる会社をこんなに望んでいるのは、ちょうど80年代に終身雇用の恩恵を受けた親の世代の勘違いをいい感じに引き継いでいるであろうか・・・。そういえば、就職先企業の人気ランキングを見ても、「親の世代には調子が良かったがこれから衰退する企業」ばかりだったな・・・。でも昔からそんなもんかもね。そういえば、僕が就職活動をしていたとき、JALがあぶないのはわかりきっていたのに、それでも就職ランキングはトップ近辺にあったな・・・規制で守られたら弱くなるのに・・・。

もちろん、終身雇用にはメリットがないと言っているわけではないので、100%ありえないといっているわけではないですよ。しかし、いまだにそんな事言っている企業で、本当に意味わかって言ってる企業がどれぐらいあるのかがかなり微妙というだけで。(というかそんなこと言っている会社どれぐらい存在すんの?)

将来が不確実な時代でリスクをとりたくないのであれば、実力より高い給料をもらわないことと、実力を上げ続けられる環境に身をおくこと、以外できることがない気がするんですがどうでしょう。

時間と肉体に関する独り言

寝込んであらためて思うが、人生で大事なものは二つしかないなー。

時間と、肉体だ。

生まれたときに親が与えてくれたのはそれだけ。つまり、人間は資産として、その二つ以外、何も持っていないし、死ぬときに失うのもその二つしかない。

あとのものは、すべて無意味か、細かい話だ。

だから、健康に、幸せな時間を過ごす以外に価値のあることなどない・・・

体調を崩すと、ほんと、これ、改めて思うよね・・・。

健康をかえりみず不眠不休で働いて、家族にも捨てられて、お金、地位、名誉を手に入れたって、幸せで健康でなかったら意味がないし。持っているのが石ころだろうが札束だろうが、本人が持ってて同じぐらい幸せなんだったらどっちだっていいし・・・。

ふー・・・

だから何って感じだなー

まー頭まわんないし、いいよね。

なんかベッドの中でパソコン使うぐらいしかすることないから、このままつぶやき続けてみよう。

人生、時間と肉体しか価値があるものはないのに、僕たちは時間を会社に対して販売して、お金を得ている。お金あっても幸せにならないけど、ないと不幸だからしょうがないよね。

でも、自分の人生の「余命」の一年を誰かに売るとしたら、いくらで売る?あるいは、いくらで売れると思う?きっと余命を伸ばしたい、お金もちの人が買ってくれるだろうね。いくら払うかなあ。

きっと、1億円は払ってくれるよね。だって、命だもの。

だから、人生の一年は、誰のものであっても、少なくとも一年一億円分の価値はあるよね。本質的に。

子供の一年も、老人の一年も。社長さんでも、主婦の方でも。楽しいこと、つらいことがあっても。あわせて一億円。なのに、起きている時間の半分ぐらいを仕事に費やして来てる。一億円の半分なら、最低、5000万円はもらわないと・・・。

それなのに!僕の人生は大赤字。もうね、500万円なのか、700万円なのか、1000万円なのかとかはもうはっきり言って誤差なわけですよ。少なすぎて。せめて5000万円はくれないと。

だから僕はこう思って生きているわけですよ。

どっちにしろ大赤字なのであれば、仕事時間というのは、メインには「自分への投資」と「楽しい仕事時間のために消費」しているのであって、ついでにちょこっと会社にもお金をもらっているのだと。

それぐらいの価値があると思えない仕事はしちゃ駄目なんだって思うよ。

そうじゃないと、もったいないオバケが出るかもしれないからね・・・。

意味不明だったらすみません。

守られたら弱くなる

風邪引いたっぽく、寝込んでます。寝込んで何がつらいって、ヒマなんだよね。家族にうつさないように、仕事部屋に隔離状態で、テレビも見られない・・・。

そんなときはブログでも書いてみる。←寝ろよ!

さて、僕は夢見がちである一方で、本質的にグータラである。迫りくる危機がなければ絶対に何もしない。子供のころから試験勉強は例外なく一夜漬けである。

よって、守られる環境に身をおかれたら、僕は現状に満足し、グータラしはじめ、チャレンジを続けたいなんて夢見がちな事を思わなくなるということは、誰よりも自分が知っている。

そんな僕が一番恐れているのは、安定した資格を持つことと、安定した職を手に入れることである。なぜかというと、そういうすばらしい守れらた立場にいながら頑張るほど、ぼくは強くないからである。

もし、難関の資格(医者、弁護士、公認会計士など、何でもいい)に合格して、「規制(=自由な競争を曲げるもの)に守られる側」になったら・・・。

もし、安定した公務員や大企業の社員になって「ワタクシは○×省(株式会社○×)の古賀でございます」と言って自分が成功した気分にでもなったら・・・。

それなりに怒られない範囲で適当に仕事しながら、絶対現状に満足してグータラしてしまう自信がある!!!

ああ恐ろしい・・・

資格の多くは、「最初がんばれば後はがんばらなくていい」という意味で、更新性のものなら「実力維持さえすればいい」という意味で、僕を駄目にする以外の効果が無い。安定した勤務先にしても、激しい倍率の入社試験を潜り抜けた末に、終身雇用+年功序列の安定した仕事についたら、その時点で会社がしいたレールに従うようになり、いつしか「若い世代はキレるべき」で書いた「」側になるだろう。ひょぇ~

ちなみにぼくがもし、グータラでないのであれば、資格や安定した雇用が無くてもどっちにしろ実力を伸ばし続けるので、資格や安定雇用などあっても無くても一緒なのだが、グータラなのだからしょうがない。

イメージとしてはこんな感じ↓

お前MBAとったやんけと思われるかもしれないけど、MBAは資格ではないので取っても誰も全く守ってくれないだけでなく、むしろそこからが挑戦の始まりである(ハーバードのMBAを取っただけで、楽な人生が待っている・・・そんな話は聞いたことがない!)。ただ、それまでには挑戦できなかった面白そうな事に挑戦できる環境をくれる。

グータラな僕としては、「狭き門」をくぐるなら、その先自分を守ってくれるものよりも、その先に新しい挑戦をくれるもののほうがいい。

「すごいこと」で思い出した絵

さっきブログ書いていたら思い出した挿し絵があったので、スキャンして貼り付けておきます。僕の好きな絵のひとつ。

トム・ピーターズ 「セクシープロジェクトで差をつけろ」 P. 59

Translation of “The Project 50” by Tom Peters

すごい事は、やってみなければわからない

ここのところZipcarというカーシェアリング会社の戦略を策定している。そこでの悩みのひとつは、カーシェアリングはまだまだ「産業」と呼べる大きさではないので戦略を立てるためのデータがない事である。ちらほらアナリストが分析を始めたがデータは間違いだらけ。産業をつくっている僕たちがデータを作らないと無いのである。僕たちに、カーシェアリング産業というものが作れるだろうか?それは、やってみないとわからない

ちなみに僕は、これから世の中を進歩させるすごい事のほとんどが、やってみなければわからない事だと思っている。僕にとっての「すごい事」と「すごくない事」を対比するために、僕の頭の中にある「成功の要因」を分解してみたい。これには3つある。

  1. 知っていたから成功した事。多くの企業が高学歴を好むのは、知っていれば成功できることがたくさんあるからである。
  2. 論理的に考えたから成功した事。「知っていること」を統合し、論理的に結論を導き出す能力(論理的思考)があれば、未来の成功がある程度予測できる。
  3. やってみないとわからないけど、やってみたら成功した事。知識があっても、論理的に考えても結論がでないことは、やってみるしかないのだ。

1と2はすごいと思わない。3はすごいと思う。3の「やってみないとわからない事」がほかの二つと圧倒的に違うのは、データがないということだ。どんなに天才が現れても、勉強できる文書も、論理を組み立てる十分な根拠も存在しない。

真剣に思うんだけど、天才が考えたらわかることってすごいかなあ?やってみなくてもすごいとわかるのであれば、もうすでにほかの天才がやってるんじゃない?むしろ、天才だったら誰でも気づく事って、当たり前のことばかりな気がするよ。エリート官僚の人とかと会うと、その勉強量とアタマのよさに圧倒されちゃうのに、討議結果のアウトプットをみると、みんなが知っているデータで論理的な結論を導き出しているので、とがった部分もなく、ある意味「当たり前」に見えてがっかりしてしまう。しかも、もはや将来に適用できない過去のデータを天才がキッチリ分析しているものだから、むしろ天才であることが政策に悪影響を与えている気がする。

個人的に、僕が最高にかっこいいと思うのは、そういう天才じゃない。勇気をもって、リスクをとって、可能性を信じて、負け戦に挑戦するバカ野郎だ。地図を持たない冒険者があてずっぽうに歩いた道に地図ができる。エイズ治療の効果のある薬を探す研究者は、いろいろな物質の効果をしらみつぶしに試して失敗しないものを探している(勉強したり論理的に考えれば薬ができるなら、すでにエイズは撲滅されている)。こういうのがすごい。こういうのが世界を進歩させる。

僕はアントレプレナーとばかり仕事をしているが、彼らがすごいとおもうのは彼らが失敗のプロであることである。ある意味、アントレプレナーの仕事は失敗することである。エンジェルやベンチャーキャピタルが投資するのは、必ず「成功するかどうかが不確実なビジネス」である。提供された資本がつきるまでに、失敗しなくなるまで失敗し続ける。データが無い中で、仮説に基づいていち早く行動し、さまざまな事を試しては、失敗した瞬間に経験から学び軌道修正をどんどんと繰り返す。失敗の繰り返しの中で起こっていることのほとんどは、整理されておらず、戦略的でなく、地味で、全くかっこいいものではない。

アントレプレナーは、「不確実」なエリアに切り込み、アメーバのように「確実」エリアをじわじわと広げていく。それが一定以上の面積まで広くなれば、そのビジネスは「成功」と呼ばれるようになる。成功した時点で、失敗のプロであるアントレプレナーの仕事は終わりである。そして、そこにデータが生まれる。歴史が生まれる。

確かに、かっこいいプロセスではない。でも、まだ解明されていない不確実なことがたくさんあるから、人類の希望は失われないのだ。。

「愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶ」というが、本当にすごい人は経験に学び歴史を作る。あとは後から賢者がやってきて歴史を学ぶのだろう。しかし僕は歴史を作った人のほうがかっこいいと思う。選択肢があるなら、僕は歴史を作る側になれたらいいなあ、と思う。

おまけ

無責任なアドバイス

人の相談に乗ることが多い。よくわかんないけど、キャリア、人生、恋愛、なんかいろいろある。

数多く人の相談に乗っていると、用事も無いのに「俺って若いけどすごいから会ってください」みたいな人もいる(そういう人はたいていすごくない)し、長いメールで相談に対応したのに無視する失礼な人もそれなりにいるので、こんな事して意味あるのかと思うときもある。でも、僕は人にアドバイスしてもらいながら生きているので、逆にアドバイスを求められたらできるだけ対応するようにしている。

時には、リスクをとって生きていくべきか、という相談を受けることがある。

僕はこういうとき、笑ってさくっと「挑戦してみなよ」と言うことが、たぶん普通の人より良くある。(言わないこともあるけど)

・・・ということを公に言うと、僕みたいに「やっちゃえ」というのは「やめろ」派にはとても無責任に聞こえるらしく、無責任だ、いい加減だ、安易だ、と言われる。おっしゃるとおりです!僕がするアドバイスはいつも無責任!本人が失敗した時に責任なんてとれません。

でも、これだけはわかってほしい。僕はいい加減にアドバイスをしているつもりじゃない。僕だってこのアドバイスをすることは恐ろしいし、笑顔の裏では手に汗かいてビビッているということを。

「やめろ」というアドバイスをするのは簡単だ。他人が失敗した事例のデータはいつだって豊富なので、論理的に脅かしてあきらめさせることのほうがよほど説得力があると思う。

一方、「やれ」というアドバイスをするのは難しい。僕がその人の可能性を信じている事意外に、何の根拠もない。「やめろ」派に対して説得力のある客観的なデータもロジックも何一つない。単なる主観である。

それでも僕は、本人の可能性を信じていたら背中を押してみる。うまくいかないかもしれないし、後にあんたのせいだと恨まれるかもしれない。「やめろ」というほうがお互いにとってリスクが低い。

でも、世の中には限られた可能性に賭ける人が必要なのだ。

「可能性」・・・すばらしい言葉!

芽生えた若葉のようだ。雨がふらなかったり、台風がやってきてしおれてしまうかもしれない。でも・・・・ひょっとしたらいつか美しい花を咲かせるかもしれない!

でも、この「可能性」という若葉を育むことはとても難しいし、恐ろしい。「可能性」というのは、裏を返せば「確実ではない」という意味なので、リスクを消すことはどうやってもできない。でも、こうやって、「可能性」を信じて、データで裏付けることができない事に挑戦する人にとってもっとも重要な栄養は自分の力を信じることである。言い換えれば、勇気。

未来は誰にも証明できない。すばらしい力を秘めた本人ですら、つらいことがひとつあれば自分の事を信じられなくなって迷いが生じる。こうして可能性の芽はいとも簡単に摘まれてしまう。で、僕の前にアドバイスを求めてやってきて、そのしおれかけた「可能性」は僕の前に提示される。

僕とあった人からすればヘラヘラしていたと思うが、真剣勝負である。自分の話す言葉がその人にどれぐらいの影響を与えるか把握しているわけではないけれど、ひょっとしたら大きな影響を与えるかもしれないから・・・。

短い会話の中から、その人のすばらしいところをたくさん探す。そして、その人の「可能性」を信じることができたら、僕はそれを正直に伝える。でも恐ろしいよ。知りもしない将来。でも僕は自分に言い聞かせる。本人が自分の力を信じられない時こそ、僕がその人の力を信じなければならないと。この人がこの人(自分自身)を信じているよりも、僕はこの人を信じていると。だから、いけると!そう思って、僕は「僕はあなたならできると信じています」と手に汗にぎって言っているのである。

確かに、僕が「やってみたら」といったところでその程度の根拠しかないので、うまくいくかどうかなんてまったくわからない。でも僕がその人を信じているというのは本当だ。あんまり足しにならないかもしれないが、それだけはわかってほしい。

・・・とまあ、そんな独り言を言ったところで、結局は、「リスクがあるのにいい加減な事を言うのは無責任だ」と言われる。でも、僕はこれに関してはこの日記をもって反論させて頂きたい。

あんたこそ、その手で握りつぶした可能性に責任が持てるのかと。日の目を見ることなく消えていった将来がその人にとってどれだけ大事だったのか、あんた知っているのかと。「お前の力ではできないからやめておけ」といってその人を信じなかったのがそんなに偉いのかと。恨まれることもなく、誰でもいえるようなアドバイスが、どうしてそんなに責任のあるアドバイスなのか。

「会社の幸せと個人の幸せ」と幸せの連立方程式

この前書いた「会社の幸せと個人の幸せ」の話だが、これは色々な分野でも適用される考え方である。そして、「結婚生活にも適用できる」というお話をいただいている。上記の絵で「転職」を「再婚」に置き換えられる、という意味だろう。

ちょっと待ちなさい!

前回、最後のほうに「会社をめちゃくちゃ愛している人はそれでいいのかもしれません」と書いた。これは結構重要なのだ。話を長くしたくないからしれっと適当に書いたのだが、ここ
をちゃんと説明しないから意図しない解釈が出てしまうのですな。

今回の話はややこしいのでできれば説明したくなかったが、みなさんに前回のお話をへんな風に解釈して不幸になってほしくないので、今回は前回の日記に捕捉をしてみたい。これはシンプルに説明できません。興味ない人は読むのはやめましょう。

えっと。

上のチャートを結婚の考え方に適用できるかどうかは、人によっては正解でもあり、人によっては間違いでもあると思う。正解と間違いの二つを分ける唯一の条件は、「お互いを愛しているかどうか」だ。お互いを愛している状態、というのは人によって定義が違うだろうから、もう少し説明したい。

通常、どんな生き物でも、純粋に自分の利己のために生きている。しかし、それが唯一適用されないのが、「愛している」という状態である。例えば、愛する人のために命を失った人は数多い。利己のために生きている人間が、どうして命を捨てられるのか?それは、人を愛した瞬間に、生物の根本的なルールに「矛盾」が成立してしまうからだと思う。

これをお絵かきで説明するのは難しいが、またチャレンジしてみよう・・・。

A男さんとB子さんがいますね。(ナイスネーミング!)

A男さんが、B子さんを愛していたとします。A男さんには、「B子さんのために幸せのために、何でもしてげたい!」という気持ちが生まれました。何でもしてあげたいという時、A男さんは、自分の幸せを犠牲にしてもいいから、B子さんを幸せにするために、見返りなく与える事を望んでいます。

そうすると、A男さんの幸せの定義に変化が起こります。

何が起こったのか?これは、A男さんの中で、A男さん自身の幸せより、B子さんの幸せを優先することが、A男さんにとってもっと幸せになった、ということです。(だから、より高い位置にあります。)

でも、これだけでは結婚は成立しません。B子さんはA男さんが嫌いかもしれません。B子さんは、相変わらず、B子さんの幸せを優先しています。B子さんが悪質なキャバ嬢とか風俗嬢なら、これを利用してお金を巻き上げるでしょう。取引条件が最重要であるビジネスの世界ならば、B子さんにはチャンスです。

しかし、ここでB子さんもA男さんが好きになったら、B子さんの中では何が起こるでしょう?

B子さんにとっても、A男さんの幸せを優先することこそが、自分の幸せを優先するよりも、もっと幸せなことになってしまいました。結局、二人はお互いを愛していることになり、図は以下のようになりました。

そうすると、二つのことが起こりました。ひとつは、二人の幸せの優先順位の交換が行われた、ということ。もうひとつは、元の幸せの位置よりも、幸せの位置がより上位にシフトし、幸せ度が上がった、ということです。これを幸せの上位交換とでも呼びましょうか。

この幸せの上位交換が起きる状態が、僕がここで言っているお互いを愛しているという状況です。

しかし、これは明らかに矛盾しています。

A男さんの幸せは、B子さんの幸せを優先することでした。でも、B子さんの幸せがA男さんの幸せを優先することに変わってしまったら、話がおかしくなります。A男さんは、B子さんを幸せにするためには、自分自身が幸せにならないといけなくなったからです。

うーむ。では、この後どうなるのでしょう。

さっきの絵を単純化してスタート地点に戻すと、A男さんとB子さんの幸せが入れ替わった状態です。高さはもとよりあがっていますけれども。

でも、お互いを愛しているならば、入れ替わった状態を継続したまま、結局ふたたび幸せの上位交換が起こるはずです。お互いを優先するならば仕方がありません。

結局、

  • A男さんにとって:A男さんの幸せ<B子さんの幸せ
  • B子さんにとって:A男さんの幸せ>B子さんの幸せ

という、絶対に解けない矛盾した幸せの連立方程式を二人が解こうとすると、幸せの上位交換が起こり続けます。程度の差はあれ、結果として二人は最初一人ずつでいたときよりもずっと幸せになります。

もちろん、この矛盾は本質的に不安定です。どちらか片方が愛情を失い自己犠牲への関心がゼロに近づくにつれて成立しなくなります。しかし、成立するのであればこんなに素晴らしいことはありません。

異常にくどい説明になってしまいましたが、結局以上の説明で何を言いたいかというと、会社と個人では幸せの上位交換を無限に起こす「連立方程式の矛盾」は起こらないと僕は言っているわけです。

どういうことか。

そもそも、僕が言っていた前回の話は、「会社と個人の幸せを連立方程式にしてはいけない」という事です。

会社というのは、お金をもうける取引をするために存在していますので、お金をもうけないという選択肢ありません(つぶれそうになった時に会社員を優先して倒産ということはない)。にもかかわらず、会社は個人が会社を片思いで愛するように洗脳します。つまり、方程式はこうなります。

  • 個人にとって:会社の幸せ>個人の幸せ
  • 会社にとって:会社の幸せ=会社の幸せ

ということです。

この連立方程式は解けるので、会社が幸せになって終わりです。「会社をめちゃくちゃ愛している人はそれでいいのかもしれません」というのは、洗脳されていなくても、会社を一方的に愛せるならこれでも幸せだ、という意味です。しかし僕は、ビジネス上の取引は愛情のために行っているわけではないと思うので、取引相手と無理に方程式を連立させず対等にすべきと言っただけです。つまり、こうなります。

  • 個人にとって:個人の幸せ=個人の幸せ
  • 会社にとって:会社の幸せ=会社の幸せ

この方程式は連立していないので、お互いが自立しながら協力することで、それぞれ幸せになりましょう、ということです。前にも書きましたが、こういう考え方はプロフェッショナルではないという意見が多いかもしれませんが、ビジネスの取引の観点ではこれこそがプロフェッショナルであると僕は思います。

難しすぎる?うーんすみません。でもここまで伝われば後は簡単です。

最初に、前回の議論が、結婚の考え方に適用できるかどうかは、人によっては可能でもあり、人によっては間違いでもあると思うと書きました。前回の議論は、あなたの結婚が、それぞれの自己利益のための取引を目的としているなら方程式は連立しません。よって、相手を変えながら個人の幸せを追求することは合理的です。

しかし、あなたの結婚が愛情に基づいているのであれば、適用できません。なぜかというと、お互いが愛し合っているならば、幸せに向かって相手を変え続ける必要はなく、その時点で幸せは達成されているはずだからです。

幸せに向かって相手をステップのように切り替えれば自分自身がより幸せになるという考え方をしている時点で、方程式を連立させていない、つまりビジネスをしているという事実に気づいてほしいと思います。

現実問題として、愛情というのは、最初の時点ではものすごく上位交換が行われるので幸せをもたらしますが、同時にものすごく不安定です。そこから時間とともに安定した場所にまで落ち着き、平穏がやってきます。そしてどこで安定するかは夫婦によってい違います。ですから、全ての結婚について幸せの上位交換がすごいといっているわけではありません。ただ、僕が言いたいのは、前回の文章をもとに、会社と個人の関係を夫と妻の関係に当てはめるのは辞めてほしいということです。

もし、矛盾した幸せの方程式が全然成立していないのであれば、転職するかのように乗り換えればいいやと結論づける前に、「自分が自己犠牲をしているだろうか、もっとできるだろうか」を問うべきだと思います。

会社の幸せと個人の幸せ

今回は、会社の幸せ個人の幸せを混同すると、30過ぎた頃に「こんなはずじゃなかった人生」がやってきて、場末のバーで酒を片手に「現実なんてそんなもんさ」といいながら、氷がグラスに当たってカランという音がしますよ、というお話です。

僕たち人間には、それぞれ人格があり、誰一人として同じ人はいないから、他人と幸せの形が完全一致するなんてことはありえない。当たり前だよね。

一方で、会社組織というのは人間と一緒で人格を持っていると思う。それぞれの会社によって、それぞれの幸せの形をもっている。夢も、ビジョンも、プランも、性格も違う。

別人格である以上、自分の幸せと会社の幸せが死ぬまで100%一致し続けるなんてありえない(個人の起業を除く)のだが、このズレに気づかないと、人生大変な事になってしまう。そのプロセスについて、またお絵かきで説明してみたい。うまくできるかな・・・

若かりしころ、初めて就職活動をしているときを考えてみよう。

自分はどういう風に社会人として生きていったら幸せなのか誰しも考えると思う。ただ、どうやってそこに到達するのか(どの会社に入れば幸せに近づけるか)ははっきり決まっていないだろう。

そこで、僕たちは、幸せの形が近い会社を探して、一緒にすごすようになる。

しかし、会社にはそれぞれの幸せの形があり、目指す姿も、社会にどのようにインパクトを出しながらお金を得たいのかも、最終的には少しずれている。

ただ、道には幅があり、必ずしも細い一本線ではないので、方向性が似ていれば、重なった幅の中で幸せに向かって一緒に歩むことができる。会社としても、例えばGoogleのように、この幅を広くとることで重なっている期間を引き伸ばすことはできる。

ただ、そのうち、めちゃくちゃ大事な瞬間がやってくる。自分と会社の幸せに対する価値観があわなくなる瞬間である。

当然、ここで選択に迫られる。

  • 会社の幸せのために自分の人生はゴミ箱にポイして会社のために生きる 社畜コース
  • 自分の幸せのために会社から離れて自分の人生を生きる 自立コース

当然、人間が幸せになるために生きていると仮定すると、自分の幸せのために自立しなければならない。(プロなら無責任に自分の思い通りにしようとするのは勝手、みたいな話もあるが、本来プライベートな時間を誰に「プロの時間」として売ろうと勝手

が、人生の転機となる事が多い30代の前半に、勢いのあった20代の夢を忘れてくすぶっている人が多い。つまり、多くの人は社畜コースを選ぶ。なぜこんなことになっているのか?

原因は、洗脳だと思う。

僕たちは毎日、評価され、給料をもらい、昇進をちらつかされ、褒められたり怒られたりしているが、これは会社が会社を幸せにするために行う洗脳である。ひとたび会社に洗脳されれば、もう自分の幸せは見失っているので、「大事な瞬間」がいつなのかすら、気づくことは無い。

コンサルタント時代には、「コンサルタントは、こうあるべきだ」「いいコンサルタントは、こうだ」「コンサルタントなんだから、こうバリューを出せ」と言われた。当たり前だけど。黙って言うとおりにがんばる素直な皆さんは、評価もいいし、給料もあがるし、昇進もする。が、僕は「いいコンサルタント」になるために生まれてきたのではない。「仕事はアウトプットが全てであり時間は関係ない。」などという洗脳も「それ、会社の都合でしょ?僕がこの世に生まれた時に与えられた価値のあるものは時間と肉体だけ。時間のほうが大事」と思う。それで評価を下げたいならどうぞ下げて結構。給料を下げたいならどうぞ下げて結構。それでも会社が僕に合わせないならその会社はクビにすべきであり、ほかのより価値観の合う会社に移るべき。

かくして別の会社に入るのだが、やっぱり道は完全には重なっていない。長い人生の中で、いつかまたずれる日がやってくるだろう。

だが、それでいいと思う。会社が、会社員を幸せにしてくれるわけがない。もちろん会社は「社員の幸せを目指す」と言うが、それを信じているならそれは幻想である。他人の言う事を聞けば幸せになると思っていること自体、シンデレラ思想というものである。

会社は会社を幸せにする責任しかない。僕たちを幸せにする責任は僕たちにしか無い。

だから、僕たちは会社から自立して、自分の幸せの為のキャリアをマネジメントしていかなければならない。

会社の幸せと自分の幸せを混同した瞬間、人生を会社にまるごとプレゼントしているようなものである。なんという気前の良さ!

あとは洗脳されているうちに、僕たちがもっていた夢も、希望も、いつの間にか曲げられてしまう。そして、10年もすれば僕たちが最初に何を目指していたのかも、ほとんどの人たちは忘れてしまう。そう、ほとんど。そして、ふと気づくと、あまりに当初の予想とは違う自分の未来が現実となっているのに気づく。何が悪かったのかはわからないが、失った時間は帰ってこない。そして、30過ぎた頃に「こんなはずじゃなかった人生」がやってきて、場末のバーで酒を片手に「現実なんてそんなもんさ」といいながら、氷がグラスに当たってカランという音がするわけです。

というわけでかなり極端でうがった展開をしてしまいましたが、会社をめちゃくちゃ愛している人はそれでいいのかもしれません。

ただ僕が思うのは、一度しかない人生で、「こんなはずじゃなかった」「あの頃は良かった」なんてあきらめたような泣き言を言ってはいけないと思うし、自分以外の何かが悪いみたいな言い方をしたところで、自分の幸せを捨てるか捨てないかは、いつだって自分の手にゆだねられていると思うんです。

プロとしての自覚はとても大切ですが、だからといって自分の人生の手綱から手を離してはいけないと思います。一度しかない人生の、一度きりのキャリアなのだから。

日米の多様性

ブログも久々に書き始めたところで、またネタ系の話を・・・今日は文化のお話です。

アメリカに引っ越してきてもう4年近く経とうとしている。引っ越したばかりの時は文化の違いに参る事も多かったけど、慣れると意外と快適である。特に良いと思うところは僕みたいな人間でも怒られずにいられることだ。怒られないでいいと、素直に生きていられるのでとっても楽。

これはいわゆる多様性という文化があるからだと思う。でも、多様性ってなんだろう?

僕は、多様性というのは、人間の標準偏差の大きさの話だと思う。標準偏差というとよくわからないので、以下のような分布の絵の話。

「何の分布の話か」というといろいろなものがあって、身長などの外的特徴、運動神経、知能指数、性格・・・とりあえず、今は抽象的に考えてみたい。とにかく、人間っていうのは、どんな国に生まれようと、生まれつきいろんな形で分布している。

で、多様性の文化の話に戻すと、僕は日米の文化のもっとも大きな差は、この分布の各グループに対する社会的作用だと思っている。端的に言えば、日本文化は平均グループが大好きであり、アメリカ文化は平均グループに興味なし、ということだ。

■ 日本文化の各グループに対する作用

  • 平均以上グループは「大多数」から仲間はずれにされる
  • 平均グループはとても大事にされる
  • 平均以下グループはボコボコにされる

具体例:

  • 平均以上: 昔からできる子供はいじめられるのは日本社会の鉄則!大人になっても成功者は尊敬されるどころか妬まれる事が多く、成功者には多くの社会的罰則が準備されている。才能を伸ばすべくチャレンジしようとすると、「前例が無い」「リスクが高いから駄目」「調子に乗っている」など平均グループに押し戻す強烈な力に叩かれる。「能ある鷹はつめを隠す」ということで平均グループに身を寄せて生きるのが賢い。
  • 平均: たぶん日本社会でもっとも幸せなのは何をやっても平均的な人だと思う。皆が選ぶ行動と同じ行動を取れば、予想の範囲内の事ばかりが起こるので人生のリスクは大幅に激減され、平和がもたらされる。社会的に、「規律」という、人間を平均的に是正するシステムがあるので、「ルール」として制服を着るような明示的なものから、「マナー」という非明示的なものまで様々な手法で人を平均化する。平均的である人の大群の群れの中にいれば、自分が危険にさらされることはない。周囲も、平均的である自分をほめてくれるので、友達もたくさんでき、愛される。
  • 平均以下: 日本文化には平均以下を許容する事に対する恐怖があるので、「他の人が出来る+あなたが出来ない=あなたが悪」という論法を利用して平均グループに押し込むすごい作用がある。例えば給食の好き嫌いは責任というより個性なのだが、栄養学的根拠というより「平均的でない事への憎悪」で無理やり食べさせる。本来分散している形を強引に中心に寄せるため、この攻撃的な作用に耐え切れずトラウマと共に生きる人や自殺する人も多いのでは?(日本は先進国でもっとも自殺率が高い)

■ アメリカ文化の各グループに対する作用

  • 平均以上は徹底的に伸ばされる
  • 平均グループであるメリットがない
  • 平均以下を更生する気がない

具体例:

  • 平均以上: 何かが平均以上にできると、日本人からするとバカにされているのかと思うぐらい大げさに褒められ、歓迎され、モチベーションを高められる。子供なら、成績がよければどんどん飛び級になって周囲を追い抜き、羨望のまなざしで見られる。勉強以外でも才能を伸ばすシステムが整備されていて、追い抜いても追い抜いてもさらなるチャレンジが準備されている。大人になっても、経済価値を生み出せれば生み出せるほど無限に収入は上がり続けるし、成功者として尊敬される。
  • 平均: ボコボコにされるということはないのだが相手にはされない。目立たないようにしていても誰も認めてくれない上に、人間関係でも交渉ごとでも不利になりやすい。個性なく「勉強が得意ですがあとは普通です」じゃいい大学にも入れない。そもそも「大多数の意見」がないので集団に同化して安心ということもない。ルールや社会的規律がゆるく平均的でいること自体どうやっていいのかわからない。
  • 平均以下: 社会的にだめであることを是正する気力がほとんど感じられない(笑)。だめな人は是正されにくく、よりだめになる人も多いので、分布が下方に広がって信じられないぐらいにだめな人が見受けられる。「快適だし」「それもまた個性だし」ぐらいの楽観性が、極度の肥満率、麻薬、凶悪犯罪に結びついている気がする。おかげで日本ではありえないような面倒くさいことにしょっちゅう巻き込まれる。

怒られまくっている人は日本には向いていないかも

あるていどの変人だと、日本では年がら年中いじめられたり怒られたりするのでつらい。これは多くのプチ変人~本格的な変人に当てはまるだろう。僕も弱みがいっぱいあるので、日本にいると本当に怒られっぱなしである。

例えば、お酒が飲めない言えば、無理やり飲まされそうにされた挙句フェアに割り勘である。一方で、色々とチャレンジしようとすると、「駄目」「無理」「前例が無い」「誰もそんな事頼んでない」と邪魔者扱いされたり罵倒されたりしてきた。アメリカ人にいると、変人は楽である。お酒が飲めないといえば、「あ~ごめん知らなかった」ぐらいですむ。お酒を飲まない宗教もあるし、肉も食べない人も多いぐらいだし、僕なんて大したことない。新しいことにチャレンジしたいというと、ワーッと人が集まってサポートしてくれる。

型にはまれといわれてストイックにはまれる従順なタイプの人もいるだろうが、型にはめられると毎日苦痛で「これでいいのか」と疑問を持ち続けている人もきっといるわけですよ。あまり怒られていたら性格が曲がってしまいますので、逃げるのも手かと。

だって、怒られないってすばらしい!

しかし日本の文化もすばらしい

ちなみに、僕は日本の平均グループを重視する文化・・・つまり標準偏差を最小化する文化も大好き。標準偏差(グラフの幅の広さ)が大きいというのは、リスクである。予測できないような事をする人が多いということである。人間の性質に標準偏差が大きい状態は、治安が悪いということである。色々な人がいると、極端にだめな人が増え、彼らに出会う確立が高まるということであり、いきなり撃ち殺される可能性はアメリカのほうが高い。

また、標準偏差というのは、品質である。多様性があればエラーが増えるわけで、商品を雑に扱う人が物流の間に一人でもいれば、卵は割れてしまうので、お店では割れた卵がしょっちゅう売っているし、送ったものが届かないとかそういうエラーがやたら多い。一方で日本は労働者の標準偏差がえらく低いので、品質が海外ではありえないほどに一定なのである。「品質管理」というのは、アウトプットの品質の標準偏差に他ならず、「カイゼン」とは、ほとんどが標準偏差を引
き起こすエラーを徹底的に排除するプロセスをさしている。だから日本の「カイゼン」はグローバルに強いのだろう。

ちなみに標準偏差が少ないことに価値がある、というのはいろんな分野において正しい。例えば、金融商品(株とか、国債とか)は平均リターンが同じであってもばらつき(金利の標準偏差)が少ないものが価値が高い。日本人がリターンがほとんどない銀行預金を株式投資より選好するのはこれまで話してきた文化を考えると当然だ。ヘッジファンドなどが使うCAPMという理論で株価を算定する手法は、まさに標準偏差を利用して株価を決めるのである(厳密には相場の動きと特定株式の共分散だけど)。標準偏差が高い株を扱う場合、倒産して紙切れになったら資産はゼロになる。人類の標準偏差でも、歩いていて撃ち殺されたら人生の残り時間がゼロになる。

金利のばらつきが少なければ金融商品の価値あがるように、人間のばらつきが少なければ、社会の価値は上がる。平均モラルが高くなる。安心できる、すばらしい社会なのである。

もちろん将来の不安もある

一方で、ビジネス的な立場で言わせていただくと、標準偏差最小化の文化には不安もある。

ひとつは、イノベーションが起こりにくい、ということである。ダーウィンの進化論では、進化というのは、突然変異というエラーで現れた強力な種が古い種を滅ぼすという現象なのだが、こういうことは標準偏差が低い社会では起こりにくい。企業でいっても、日本の時価総額の高い企業は、50年とか200年とか昔に設立された会社ばかりで、こうした大企業が経営難になっても淘汰する側の企業がちっとも現れないし、自己革新も難しい。

また、標準偏差を最小化する「カイゼン」というのは、既存のビジネスプロセスが変わらないことを前提とした内向きな能力構築であるなのだが、ひたすら続けると、「ガラパゴス」と呼ばれる状態になってしまう事がある。ガラパゴスの生態系は外部からの新種の浸入に弱く、そもそも既存のプロセスやスタンダードが、海外業者やまったく新しい技術によって変わった時には一気に破壊されてしまう。

また、「少数」を排除することで「大多数」を作る、という操作を行ってしまうと、「大多数の意見」が時代の変化とともに変わってしまった場合に、リスクの集中を招く。「寄らば大樹の陰」でその大樹が倒れた場合は全員死亡する。だいたい、時代の変化に大多数が気づいたときには大抵の事は手遅れである。

蛇足アメリカ留学へのアドバイスを求められたら・・・

ちなみに、僕はアメリカに留学しましょうとか仕事しましょうとかいうアドバイスをする上では、その人が平均グループに入っているかどうかで何と言うか決めている。

平均グループで平和に生きている大多数の人にはお勧めしない。もちろんもう日本は駄目だとかそういう意見は正しいと思うのだが、総合的に見て、けっこうな変人じゃないと日本のよさを上回るメリットないと思う。そもそも平均的な人は周りの良識ある合理的なアドバイスにしたがってやめる事が多いと思いますが。

一方、すごいところがある人とだめなところがある人にはおすすめ(総合じゃなくて、個別で)。そもそも平均的な他人の意見など聞けないとか、そういう突拍子も無い変人であれば、むしろストレスなく生きられるかもしれない。しかしこれは全体の割合としては少数になる。

実際、日本のすばらしさを考えると、多くの人にとってはたとえ日本がこれから駄目になっても、引き続き日本のほうが快適なんじゃないかと思います。総合的にかなり良い国ですから。

ただ、僕は変人が好きなので、変人の人はぜひボストンまで!

久しぶりだったので長くなりました。文章短くしないとね。

今週もよろしくお願いします!