学ぶ人

学ぶ姿勢のある人は、様々な文章から、自分にないもの、学ぶものや感動するものを引きずりだし、身につけて成長しようとする。学ぶ姿勢のない人は、同じ文章から、相手は間違っている、だから自分は変わる必要はないと言える部分を探し、批判して満足する。

学ぶ人は、誰からでも学ぶ。例えアドバイスしている相手からでも、教え子からでも、子供からでも学ぶし、学ぶ機会を探しては吸収していく。自分を変える機会を探している。学ばない人は、見下せるターゲットを通じ自分は正しいと主張できる機会を求めている。自分を変えない理由を探している。

学ぶ人は、自分が変わる事が目標であり、誰が正しいとか正しくないとか、上とか下とか好きとか嫌いとか関係なく、学んだかどうかに貪欲にフォーカスしている。学ばない人は、批判を通じて自分が他人より優れていると主張し、「そうですね」と共感してくれる人を集める事に貪欲にフォーカスしている。

学ぶ人は、相手の生まれた国、所属、経歴などの過去によって解釈を曲げず、本人そのものを見て大事な事を探す。学ばない人は、相手の生まれた国、所属、経歴などによって相手をカテゴリー分けし、グループで否定することで関連のない解釈を与えようとする。

学ぶ人は、出会いを求めている。学ばない人は、一緒に他人を否定できる仲間、つまり自分が変わらないでいいと思わせてくれる仲間と群れる。

世の中には、いろんな人がいて、いろんな意見があって、いろんな文章があって、いろんな人生があふれている。しかし同じ世界を見ても、学ぶ人は感動し、学ばない人は下らないと思うだろう。自分が見たものが、自分の人生にどんなインパクトが生み出すのか、という重要な因果関係は、ほとんどがその目を開く前に、自分が何を探しているのかで決まっている。

学ばない人生を選ぶのも本人の自由だし、本人が満足しているならそれでいいと思う。ただ、同じ世界には違う真実もあるわけで、学ぶ人生の良さを見過ごしているのだとしたら、一度立ち止まって考えるもの良いのではないだろうか。なぜ、そんなに他人を否定したいというモチベーションが自分の中に生まれたのか。例えば、なぜまさにこの文章に凄く反論したくなり、「それはお前が○○カテゴリーだからそう思うんだ」と言いたくなるのか。僕がバカで間違っていて、自分がとても優れていて正しかったとして、それが自分にとって何なのか。

学ぶ人は変わる。学ばない人は変わらない。

学びがあふれる世界と、下らない世界の違いは、世界を見る目を開く前に、自分の姿勢が決めている事ではないだろうか。

(さっきツイッターに書いた事の編集です)

現代ビジネスにインタビュー記事が掲載

田村こうたろうさんによるインタビュー記事が現代ビジネスに掲載されました!

こういったインタビューでは偏差値30台が強調されますが、僕は「勉強ができないバカだった」というより、「つまんないとやってもできない星」に生まれた「つまんないとやってもできない星人」であったということだと思います。そして同じ星に生まれた仲間は他にもいるはずだ!

偏差値30台からハーバードMBA合格! そして米国で最高峰の就職(その1)~ボリュームゾーンからのグローバルキャリアのつかみ方

今週も楽しく行きましょう!

ショパン 別れの曲

(注:最後まで読んでください)

弾いてみました。

僕じゃなくて、僕に似ているというウワサの、ドイツ人の方が。笑

「君は、こんなワクワクする世界を見ずに死ねるか!?」がやってきた


結論: 死ねない。

と、いうわけで、うわさの「君ワク」が遠路はるばるボストンまでやって参りました。送って頂いた田村さん・マガジンハウスさんありがとうございました。

さて、僕は書評なんてやったこともないのですが、今回は僕のインタビューもちょっと載っているのもあって反応してみようと思います。

この本は、田村さんご本人のごとく、ポジティブパワーと日本・世界への愛がミナギリまくった時速180キロのアツい本で、海外で活躍したい、という人には必読でしょう。「なぜ今海外なのか」「海外で生きるとはどんな世界なのか」「具体的なアプローチはどうあるべきなのか」といった内容。それだけ見るとまあよくありそうな構成なのだが、この本の最もアツいところは、

  • これは田村さんが自分自身の足で歩いて見て来た世界について、自分自身の肌が吸収したことがそのまま書いてある
  • そして田村さんほど世界の面白そうな人に直接会いまくった日本人は世界にほとんどいない

ということ。他にも色々海外関連の本は多いが、海外で働いている人間からすると現場感がなくてしっくり来ないものも多い。しかし、この田村さんの本の内容は「直接聞いて吸収した感」が半端ではない。なんせ、情報を集めている元の人がレベル高い・・・リークワンユーとか普通は一生会えないような人から、田村さんは普通に情報を収集しまくっておられる。

(参考までに、田村さんご本人のネットワーキング力と、情報収集能力は半端ではないことはお伝えしておきたい。さながら嵐のように情報を収集されていく。ボストンにいらっしゃった時は、携帯からどんどん連絡が来て、ランチで会うと怒涛の質問攻撃で、ブラックホールのように情報を集めて「ありがとう!また!」)

世界レベルで活躍できるポテンシャルのある若者にパワーを与え、10年後・20年後の日本社会に貢献するような日本人を育てたい。そんな願いがこめられた本だとと思う。

そういう意味では、その高い理想(例:とりあえずアメリカのトップスクールへ行け等)についていけない人もいるかもしれない。でも、これからの日本の事を考えると、そんな事言ってたらすごい人を育てる事はできないといことで、これから読む人は、この本を通じて田村さんのそういうアツい願いと心意気を、感じ取ってもらえればと思っております。

日本を変えるような凄い人になろうとなるまいと、世界はとてもワクワクするものであることを早いうちに感じておくのは、自分らしい生き方をデザインしていく上で、とっても大切なことだと思う。そういう意味でも、こういった本から外の世界を垣間見る事は、多くの人にとってとてもポジティブな刺激になるだろう。

これを機についにアマゾンのリンクを作ってみた・・・

安定した仕事

最近の学生と直接交流してみると、僕が想像していたよりもかなり安定を重視しているように感じる。だから、クビになったり転職したりしながら生きている僕の人生はやたらリスクが高いように見えるらしく、「そんなリスクとって不安じゃないんですか」「古賀さんの考え方は変わってる」みたいな話をいっぱいもらう。それを見て、正直言うと、「なんだか今の学生は老人になってしまったな」と思う。(もちろん人によるので「学生」とひとくくりにするのは問題があるとは思うけど、割合として)。心配なのはよくわかるし、合理的だと思う。しかし、安定を求める方法が「過去に安定してた企業に今になって入る」じゃ、むしろ不安定まっしぐらに見えるわけでありまして。
そこで今回は、ちょっと「安定」について話をしてみたい。なんか長くてまとまってないけど、週末にあまり時間使いたくないので許してください。笑
経済が不安定なんだから、不安になるのは当たり前
もちろん不安の原因は、経済・企業がこれから不安定になるからに他ならないだろう。不安定だから不安に思うのは当たり前だと思うので、これはよくわかる。これから、安定していたはずの企業がつぶれたり、統合されて重複が切り捨てられたり、海外に買収されていろんな部門がつぶされたり、いろいろするでしょう。それは残念ながら、現在の政治・経済の情勢や、少子化、世界における相対的な地位の低下だけでなく、そうした状況をなかなか変えられない日本の様々な組織への落胆など、いろんなものがあるのだと思う。
それはそれでしょうがないのだが、もしそうやって企業が不安定になっていくと思って不安なら、過去のデータとかランキングとかを見ながら「安定した企業」とやらにに守ってもらることに集中し、そこに雇ってもらえればもう安心と思うのは、矛盾していると思うわけです。いやだから、そういう企業も不安定になるかもしれないという環境を心配しているんですよね、と。
「人気企業」が大規模レイオフをするようになる時代が来る?
過去においては、日本は経済も伸びて雇用も増えてきたわけだから、安定した企業に入れば雇用は増え続けるので解雇もなく安泰だった。でも、将来は、経済が伸び悩み雇用も減るわけだから、安定していた企業が大規模なレイオフをする時が来るというのがとっても自然な考え方だと思う。
そう、レイオフ。
過去に安定していたはずの企業が、10年とかすれば、大規模なレイオフを行わなければならなくなるかもしれない、と思う。そうしないと会社がつぶれてしまう、という二択を迫られれば、解雇規制を変えてでも、やるしかなくなる時が来るのではないだろうか。
安定を求める人が集まる企業は数十年後はヤバイ気がする
企業は、これまでと同じ事をやっていたら縮小していくのだから、リスクをとって新しい事をするしかない。そんな状況で、「安定を求めて入社しました」というタイプの学生が集まるような会社で、大丈夫なのだろうか?そんな安定志向の学生が30年後に経営者になったころ、リスクをとって利益を生み出せているだろうか?むしろ、逆な気がするんですが・・・。安定を求めて入る学生が多いような組織は弱体化するだけではないだろうか。
もちろん、「安定した企業は必ずレイオフする」とまでは言えない。しかし直感的には「安定したい」みたいな人が集まる共産主義的な企業はその時点でかなり衰退の匂いがしていて、将来の大規模レイオフ候補企業に見えてしまう。企業なんてしょせんは人間が経営してるんだから、そんなもんだと思うんだよね。皮肉にも、「安定を求める人が集まる企業だから不安定になる」なんてことになるかもしれない。
安定を求めて入るような人が集まる会社はもう、大胆な自己変革ができずに傾き始めているのでは、というウワサもありますが・・・。
と、ここまでが、長い前置きで、以下が僕の考えです。
若い時に、企業に安定を求めるのはリスクが高すぎる
振り返ってみると、そもそも出発点として、日本のマクロの経済要因のせいで、企業に安定して勤める事ができるか不安だ、というところから始まっている。それが正しいとすると、
  • 「日本の企業はこれから不安定になる、だから安定した企業に入る」というのは説得力があるように感じられない。(そういう企業が危なくなるかも、という話なので・・・)
  • 「日本の企業はこれから不安定になる、だから企業に守ってもらう事を前提とするのは危険」というのならば、わかる。
つまり、「不安だ」はわかるが、「不安だ→安定した企業に就けば大丈夫」という論理は、とてもヘンだと思うのである。
そもそも、ビジネスにおいて絶対の安定なんてものはない。さっきも書いたが、日本は経済も伸びて雇用も増えている特別な時代はとっくに終わったわけで、競争力が低下している大企業がレイオフしないで生き残れるとも思えないんだから、レイオフなんてもんは、一定の割合でされるもんだ、と思っている。
「安定」とかいうけど、無理だからそんなの。いや、そりゃあったら嬉しいんだけど、僕はとっくに諦めている。だから、これから経済が不安定になって、大企業でのレイオフが起こるようになるかもしれないというのに、20代で「安定を重視しています」なんて、僕にはリスクが高すぎてとても言えない気がする。僕には「安定」なんて言う精神的な余裕はないかもしれない。
社会に出ると保護者がいなくなるので、会社に保護者になってほしい気持ちはわかるんだけど、大人になったら保護者なんていないので、最終的には自分で安定を生み出すしかないと思うわけです。

安定をもたらすのは実力のみ
企業が守ってくれないならば、自分の実力だけでしょう。「はい出ました実力!」とバカにされるかもしれないけど、まあ、それが悲しい現実だと思うんだよね。
そういやこの前、GoogleのDon Dodgeという人が弊社のイベントにきていたので、世間話をしていたとき聞いた話。彼は、米マイクロソフトをレイオフされたのだが、メディアでアナウンスされた数分後にはGoogleからすごいオファーが来たらしい。スゲー!!と思った。まあ彼は米マイクロソフトで最も有名なエグゼクティブの一人だったので極端な例だとしても、僕が言いたいのは、安定してるというのは「会社に属していなくても、個人として強いという状態」だと思う。そういう実力があれば、「雇ってもらえないと不安」なんて事にはならないわけで。
これはめちゃくちゃ難しい。そう、安定するというのは、そもそも、大企業が守ってくれればOKなんて単純な話よりも、本来めちゃくちゃ難しいのだと思う。
なお、安定しているというのは、(貯蓄がすごい人を除いて)「過去の投資のおかげで困らないだけの一定収入を得られる」という状態だと思う。つまり、投資回収モードに入っても、回収量が十分にある人は安定している、と思う。自分の実力で安定するには、当然、自分に投資をしなければ無理だと思う。
(実力をつけるためにはどこで働くべきか?それが大企業かベンチャーかなんてことは小さな問題だし、どんな職種かというのも小さな問題だ。そもそもみんなと同じ事をやっていたら価値なんてだせないんだから、なんかそういう、就職先のカテゴリーっぽい「正解」があると思う事自体にすごく問題があると思う。そして、つけた実力が社会に求められるかなんてわからないので、努力さえすれば報われるとも限らない)

いつから投資回収に入るか、が大事

前述のように、会社が頼れないのであれば、安定は実力への投資回収によって生まれると思うのだが、結構大事なのは、いつ実力を求めて投資をし、いつ回収するのかだと思う。企業の安定だって、大抵は「これからこのビジネスが伸びる」と思うものに設備投資し、それが当たった時に生まれる。人間でも同じだと思う。将来の安定のために事前にリスクをとって投資せずに、将来何をもって安定を生み出せるだろうか。
僕は、今の時代は、20代とかに「安定」とか言って余裕かましている場合ではないと思う。特に、もし将来の結婚とか育児とか考えているならば、安定なんてもんは子供が大学行くころに最も必要なものである気がする。にも関わらず、20代の、傷つくキャリアすらない学生が、安定ばかり求めて生き方を決めてしまうのを見ると、すでに投資回収モードに入った撤退モードの老人みたいに見えてくるのである。
「若い時、余裕を重視し、本当に安定が必要なときに路頭に迷う」というのも、「若い時に不安定の中でサバイバルできるようにして、不安定になっても食いっぱぐれないように実力を育てる」というのも、リスクが前か後かの違いでしかないのかもしれない。しかし、投資というのは基本早期に行ったほうがリスクが低いし後から長期回収できる。さらに、日本の経済はこれからさらに不安定になるのであれば、路頭に迷ってから「手に職を」とか言っても既に手遅れになってしまうかもしれない。

だから、僕から見ると、「安定」とか言ってる学生はリスク取りすぎに見えるわけですよ。これからの日本で、「安定を重視してます」って、そこまで余裕かましていて大丈夫なのかと。
僕には「安定を求める」というリスクとる勇気は無い。今も、まだない。
そしてこの、「安定したいならば、人生の前半に投資し、経験を積んだら後半に回収すべきで、最初から回収モードになるべきではない」という話は、どんな職歴でも、学歴でも、能力でも、同じ考え方が適用されると思う。

高速に回転する駒だけが安定する。例え過去にどんなに安定して回転してきた大きな駒に身をゆだねても、減速すればあっけなく倒れる。もう、そんなの、たくさん見てきたでしょう。だから、自分自身が回転し、成長し、変化して、実力を高めることで安定を生み出すのが、最もリスクを取らない戦略だと思うのであります。

また明治大学での講義 / 国際キャリア特論

先日、奥さんに「あなたは昔、カモメの水兵さんの曲の白い帽子白いシャツ白い服のくだりを、MECEではないと批判していた」と聞いて、われながら自分は最低人間だと思った今日このごろですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

ぼちぼち明治大学で講演したり講義してますが、また再びやる予定であります。

  • 場所: 和泉第一校舎 002教室(地下1階)
  • 時間: 6月19日火曜日 5時限(16時20分より)
  • トピック: よくわかんないけどたぶん留学の話だと思う

実は、去年も同じトピックで講演頼まれてまして、動画はこちらで公開されております。

ということで今回は、「去年も同じ授業シリーズの同じトピックで講義したのを録画して公開してますし、また僕がやる意味がないと思うんですが。夜中のビデオ講演なので仕事に支障がありますし」とやんわり断ってみたのですが、「しかし、それでも古賀さんには1年生に直接語りかける機会を持っていただきたい」(=知るかボケ!)と押し切られたのでがんばります。

何はなしていいのかわからないので、Twitterでコメントしてもらえると助かります。

今回もビデオ会議になります。アメリカでは午前3時20分から講義します。たぶん明治大学は僕の事を殺す気です。

グチっぽいですが、当日になるとノリノリだったりするタイプなので気をつけてください。

それ本当にやりたいの?

「こういう仕事がやりたいのだが、どうすればよいか」というアドバイスを求められた時、やりたいと言っている事に関して行動が伴っていない人が多い。そしてこういう人の特徴は、「今やっていることがやりたくない」ということだ。本当は「これがやりたい」ではなく「これならやりたくなくないかもしれない」という希望なのだと思う。でも「やりたい仕事」がどんな仕事なのかという現実に興味があるわけではないので、行動は伴わない。

これはとても怖い事だと思うから、ちょっと書いてみる。

あくまで例だが、「どうしても保母さんになりたい」といっていた人が、保母さんになって1年後に「やっぱり保母さんなんて全然やりたくなかった、実はエジプトで考古学者をやりたいと思っているが、アドバイスが欲しい」と言ってきたら、あなたはどう思うだろうか?「あまりに違う選択肢だけど、本当かな」とは思うだろうか?僕は、その時点では「本人の中ではつながっているのかもしれないし、実際にやりたいのかも」と思うけど、もし実は本人がそれをやりたくない場合はアドバイスする事自体が無意味なので、一応本当なのか確認することにしている。

こういうとき、「なぜエジプトで考古学者なのか」を聞いても無駄なので「エジプトの考古学に関し、具体的に何をした事があるのか」を聞く。つまり、こういう事を聞いてみる。「今、仲の良いエジプトの考古学者はどれぐらいいて、彼らとどれぐらい会っているのか。考古学じゃなくても、海外で研究する人たちとどんな交流をしているのか。今は考古学者でなくとも、過去にどれぐらい自分で自発的に考古学を研究したり勉強会やセミナーに参加したりしたのか。というかせめて言語は大丈夫なのか。というかエジプトに行ったことぐらいはあるのか。というかせめて海外に行った事はあるのか。」など。そして多くの場合で、そんなに大きな方針転換の話をしているのに、直接的にも間接的にも、動いた形跡が無かったりするのだ。

そもそも、「何かがやりたい」と話をされた時に、「なぜやりたいのか」なんてことは、いくらでも自己洗脳してでっちあげることはできるので聞くだけ無駄だと思う。一方で、「関連することで、実際過去に何をしたのか」はでっちあげることはできない。そして、「どうしてもやりたいけど実際に関係することに努力をしたことはほとんどありません、でもどうしてもやりたいんです」なんてことはどう考えても不自然なのだ。「経験が情熱を生む」でも書いたが、やった事が無い事に情熱なんてフツー生まれないし、そんな話は「この食べ物が大好きなのでどうしても食べたいんです、食べたこと無いけどネ!」というのと同じぐらいヘンだ。

にも関わらず、なんで多大な努力が求められるような目標を立てるような覚悟が生まれるのだろう?その情熱はどこから来るのだろう?それは、今やってることが半端ではなく嫌だというネガティブな情熱があるからじゃないだろうか。だから、「ぜんぜんやったことがない、よくわからないものであれば、嫌ではないかもしれない」という逃避のための希望を見出そうとしてしまう。そして行動が伴っていないのは、「やりたい」はずの事に対して、大して情熱も興味もない証拠である。

しかしこういう形で意思決定するのは不幸になっていくリスクがとても高い。嫌なことから逃避はできるかもしれないが、そもそも「半端ではなく嫌なことを、やりたいことだと勘違いした」という前科があるのだから、次も同様に半端ではなく嫌になるかもしれない。半端ではなく嫌なことをして生きていくのはつらい。

「自分が一生やりたい仕事」でも同じようなことを書いたけど、やりたいことなんて、わからない人にはなかなかわからない。だからお勧めなのは、よくわからないなら壮大な目標を立てないことだと思う。なぜなら、「それがやりたいかどうか」を検証するのにかかる時間が長くなるので、やりたくなかったときに人生の無駄が痛いからだ。例えば千里の道の3歩目ぐらいで嫌になるならば大して千里も進みたいと思ってないのだと思うし、嫌なのに五百里ぐらいまで無理して進むから半端ではなく嫌になるのだと思うし、それで10年かけて千里進んでやっぱり死ぬほど嫌だったでは目も当てられないわけで・・・。

だから、まずそれよりもっと小さい目標を立てて、色々な経験をつみながら軌道修正していって、本当に情熱が沸くものがあればポジティブな情熱を投入するほうが、とても自然な生き方だと思うよ。「会社の幸せと個人の幸せ」で、転職するのは自然と書いたけれども、ネガティブな情熱で安易に転職していいという意味には捉えないで欲しいというのもあって、今回はこのお話を書いてみました。

どうでもいいけど、昔の記事にいくつかリンクすると、なんか過去の資産で食ってるみたいでなんかイケテナイ気分になります(そして一円も食えてはいない 笑)。

さらにおまけ: 以前、「MBAの志望動機に嘘を書いて、面白くしたほうが合格しやすいか」という質問を受けた。正直な質問ですばらしい。ただ、人の話を聞きなれている人というのは、「あんた本当はそれやりたくないでしょ」というのを簡単に見抜ける気がする。「やりたい」という嘘は、これまで書いた様に本人が意識していなくても、意識して嘘を隠そうとしても、過去の行動を聞けばすぐばれると思うよ。僕もよく仕事柄、MBAの学生とかから「アメリカのベンチャーキャピタルで働きたいんです!」とか言われる。過去にやってきたことを聞くと、それが嘘なのは正直わかってしまう。(本当は日本でインターンしたくないからアメリカで何でもいいからやりたいんです、と最初から言ってくれれば、もっといいアドバイスできるのにな・・・)と悲しく思いつつ、先方も僕に「すみません嘘でした」とははっきり言えないだろうから、やんわりと話を本人のためになる方向に持っていく努力をするんだけど、まあ、こちらもさすがにかなり慣れているので、わかってます。

自己投資

自己投資、という言葉がある。何かを投入することによって、意義のあるアウトプットが再生産されるものを「投資」というんだと思う。

つまり、アウトプットの伴わない「自己投資」は投資ではなく消費である。消費もとても良いことだと思うんだけど、「投資のつもりで消費しているのを気づいていない状態」は良くないと思う。

時間やお金を自己投資に向けなきゃな、とは思う。でも、「自己投資」という魔法の言葉のせいで、がんばっているだけで意味があることをしている気がしてきて、ゆっくり思考が停止してくることってあると思うんだ。そうすると、百万円を勉強(英検一級取るとか)に使おうと、遊ぶ(ゲーム買いまくる)ことに使おうと、特にアウトプットがないなら趣味の消費に等しいという事実を、少しずつ忘れてしまう。

何かを学ぶということと、自己投資をアウトプットにつなげるということには、実はそれなりの壁があると思う。だからこそ、アウトプットにつなげてこそ自己投資だということを忘れないように意識しないと、本当に単なる消費で終わってしまうと思うんだよね。

だから、「自己投資」という言葉に満足せず、アウトプットにつなげることで、自分が使った時間やお金を意味あるものにつなげるように意識して心がけたいと思っています。

バレなければ良いという生き方

自分がやったとバレなければいいと思っている人はとても多いと思う。匿名だと失礼な人とかいっぱいいるし。

バレなければ、社会的な罰はない。バレなければ、許されない事も許してもらえる。

まあそうなのだが、はっきりいって僕はそんな人生をすごすのは嫌です。

まず、何度か書いてるけど、そもそもの僕の価値観の前提として、人生の価値とは、その人が生まれた世界と生まれなかった世界の差だと思っている。つまり、「僕」とは、「僕が死ぬまでに行った全ての行動が世の中に残した影響、変化、差の合計」である。それゆえに、僕の人生において重要な問いは、「結局、僕って、世界にとって生まれたほうが良かったんだっけ?」というものだ。

この考え方が正しいのかなんてことは知らないけど、死ぬまでに生み出した「差」こそが人生の価値であると考えるならば、「バレたかどうか」というのは自分の価値とは関係がない。バレずに「いい人」と思われていたところで、僕が生まれたことによって世界に悪い差を残したという事実は動かしようもないわけで、死んだときに「生まれてこなかったほうが世界にとっていい人間だった」という事実が残るだけである。

逆を言えば、誰にも認められなかったとしても、人を幸せにした人生にはすばらしい価値がある。誰のおかげか認知されていなくても、死んだ後の世界に小さな幸せが残っているならば、それこそが生きた証でしょう。優しい言葉をプレゼントしたり、人を喜ばせたりして、残された人がその良い事を広げてくれたとしたら、そこに残したポジティブな差は死後の世界にちゃんと残って人生の意味を形作ってくれると思う。そうやって少しずつ積み重ねていけば、きっと「生まれたほうが良かった人」になれる気がする。

バレなければ許される。他人に許されるかどうかで行動を変える。しかしそれで、差が消えたわけじゃない。息をはいても、人と他愛のない話をしても、そうしたものの全てが「自分が生まれた世界と生まれなかった世界の差」をかたちづくってる。そのすべてが僕たちが生まれた足跡としてバッチリ世界に残ってるんだよ。

だから、死ぬ前に、どんな足跡を残すか?そのとっても単純な問いが、僕にとってはとても大事です。「バレなくて許してくれもらえたからそれでいい」人生じゃ、死ぬときに振り返って、きっと耐えられないんです。

それが誰の足跡かわからなくても、そこに確かに残された足跡こそが自分だよ。足跡に名前が書いてなければ、その足跡でいいのか?名前が書いてあるかどうかが大事なのか?ちがう。大事なのは、どんな足跡なのか、だけだ。それなのに、足跡に名前が書いてるかどうかに支配されて、生き方を変えるのか。認められようと、認められまいと、自分が生み出す差が何かに神経を集中させることが、信念のある生き方であり、主体的な生き方なんじゃないのか。

というわけで、まあ思うところは色々あるのだけど、最終的に大切なのは、一度しかない人生が、「自分が生まれたことで世界に悪い差が残った」、というしょーもない人生だった・・・ということでOKなの?それで妥協できるの?ではなかろうか。そもそも、人間なんて不完全で、生まれだけでも悪い差を多少生まれるのは避けられないのだから、せめて、合計すると良いほうが上回るように気をつけるしかないわけで。まわりの優しい人たちにお世話になって生きてきた分際で、バレなければ許してもらえるからといって、のんきに悪い差を残して余裕かまして死んでもOKなほど、人生は安っぽいもんじゃない。

こんなしょーもない文章が、僕が一生会うこともない知らない誰かに読まれていたとしても、その差がすこしでも良いものであるといいな。

経験が情熱を生む

前回の検索ワードの発表で、「やりたい仕事がない」という検索ワードがあまりにも多かったので、今日はそれに関する、ちょー当たり前っぽい話を書いてみたい。

結論から言うと、僕の意見では、「やりたいこと」なんてのは、考えたってポンとわいて出てくるものではなく、自分の行動を通じた経験から、たまたま生まれるものだと思う。だから、悩んでもムダだと思うし、そもそも悩みですらないと思う。

突然だけど、すごく好きな食べ物ってあるよね。例えば、一時間列に並んでも食べたいものとか。でも、食べたことが無いものに一時間ならぶ努力するなんて情熱、ふつうないよね。だけどひとたび食べて好きになってしまえば、並ぶ努力が苦でも乗り越えられてしまう。

感情に関わるものって、大体そんなものだと思う。そうした、自分自身の直接の経験から生まれる感情(喜び、怒り、悲しみ)こそが、情熱をドライブするのだ。そして、その情熱こそが、何かすごい事をやる上での馬力を生み出す根源だ。逆に言えば、経験を伴わない、「思考」や「他人からの情報」によって情熱は生まれない事が多い。あくまで自分の経験を通じて、ハートがズキューン!と動くことが大事なのだ。

例えば、すごい情熱で英語の勉強してる人は、「論理的必要性に駆られている」、というよりは、「何気なく行った海外で、自分のあまりの英語の出来なさが悲しかったとか、英語ができる連中との差が悔しかったとか、英語ができない為にバカを見た自分に腹が立ったとか、片言の英語で友情を育んだことが嬉しかった」という人が多いと思う。仕事でもそう・・・例えば途上国援助の仕事としよう。人は、コタツでテレビみてるとき、「次のニュースです。今年、どこどこの国は貧困により何人が餓死しました。いやー大変ですね。はい次のニュースです。」というのを見て、「何だとぉ!そんな事は許されねえ!よーし途上国の貧困を解決するために残りの人生かけるぞ、どんな苦難を乗り越えても俺はやり遂げる!」とは、ふつー、思わない(すごい想像力がない限り)。むしろ、ある貧乏な国を旅している中で、その場の空気を吸い、その場の現実を自分の五感で体験し、現地の人と笑い、現地の問題を一緒に悲しむ中で、「この国の人々の笑顔が俺は大好きだ。でもこの国が抱えている問題は本当に難しいし、それを解決できないのは悔しい!みんなのために、俺には何かができるはずだ!」みたいに思っているからやっている人のほうが多いだろう。

で、こういう例で何がいいたいかと言うと、

  • 「行動」せずして「経験」することはない。
  • 「経験」なくして「感情」は動かない。
  • 「感情」なくして「情熱」は生まれない。
  • 「情熱」なくして「継続的に何かを続けるモチベーション」は生まれない。
  • 「継続的に何かを続けるモチベーション」なくして、難しいことを実現することは難しい。

ということだ。

重要なポイントは、行動こそが、全ての出発点だということだ。後先考えずにいろんな行動をする人は、いろんなところで感情が動く経験をつんでいるため、いろんなことに情熱を持つことができる。裏を返せば、そもそも人間というのは、何も経験していないデフォルト(初期状態)では、モチベーションなんて、何に対してもぜんっぜん無いと思う。例えば、ゲームを一度もやったことも見たこともない子供が、プレステを買ったとしても、ロールプレイングゲームがやりたいのか、シューティングゲームがやりたいのかなんて、わからないだろう。同じように、一度も仕事をしたことがない学生が、医者になりたいのか、エンジニアになりたいのかなんて、わからないだろう。まして仕事をしたことがない学生が「やりたい仕事がわからない」なんてのは、僕には当たり前に思える。

なので、こういう相談を受けると、「すみませんプレステの本体を買ったんですけど、やりたいゲームがないんで困ってます」と言われてるように聞こえて、それ困ってないだろ!と思ってしまうのである。いいじゃん、別にやりたいことなんて無くても。やりたいことがないのは、困ってない証拠だよ。困ってるというのは、どうしてもやりたい事、やりたくない事がある人が、目的地に届いていない状態のことでしょう。そうやって苦しんでいる人の横で、「やりたいこと無いッス、困りました」と言われても、アドバイス不能です。目的地がない人は、目指さなきゃいけない場所自体が定まってない。右にいったらいいのか、左にいったらいいのかわからない。どっちがいいのかという情報を誰もくれない。だから、迷ってるだけだ。


しかし、人に聞いてもムダじゃないかな。右がいいのか、左がいいのか・・・つまり何に情熱を感じるかなんて、自分の心以外のどこにも書いてないんだから。自分でやってみて、好きなのがあるなら打ち込めばいいし、ないならないで誰も困らないし、適当にやっとけばいいじゃん。やりたい仕事がないなら仕事時間は「金のための我慢」と割り切ってプライベートを思い切り楽しめばいい。仕事は義務という意味で趣味のゲームとはちょっと違うにしても、どちらにせよ、「どうしてもやりたい事を見つけて選ばなければならない義務がある」もんじゃない。だから、「やりたいことがなきゃいけない」なんて事を悩む意味はあまりないと思う。(それでも悩む人が多いのは、大人になるまでは、親がモチベーションをくれていたからかもしれない。親が喜ぶことをすると自分も嬉しいとか、親の期待を裏切るのが恐ろしいとかも、立派な「経験を通じた感情」なんだけど、大人になったら自立しちゃうのでそのモチベーションは保てない。でも自立しきっているわけじゃないから、親以外の誰かに答を求めてしまうのだろうが、やっぱり人に聞くのはムダだと思う。)

一方で、引きこもって考えるのもやっぱり無駄でしょう。「経験」なくして「感情」は動かないと書いたが、感情に関するものは、戦略的に計画したり操作したりできない。どんな仕事が好きになるのかなんて、出会う前にはわからない。小学生が「僕は24歳で運命の人と出会い、26歳で結婚する計画です」といったらバカだと思うかもしれないが、これは、愛情を含め、感情の動きを事前に計画することは不可能だからでしょう。そこで無理やり戦略的に計画・操作すれば、後になってから、実はやりたくない事だったとか、実は結婚したくない人と結婚してたとかいうことに気付いて、苦しくなるかもしれない。

やりたいことが欲しいなら、「やりたいことがなければならない」なんて義務感を捨て、とにかく行動してみるしかないと思う。落ち着いた、自然な、素直な気持ちで、心をオープンにして、どんどん新しいことに挑戦しよう。いつかハートが動く経験と、偶然出会うまでは感情はピクリとも動かないと思う。でも、ひとたび出会ってしまえばハートはガーン!と打ちのめされて、いきなり勝手に目標が生まれてしまって、その目標を達成できていない状態が相対的に苦痛すぎて、そこから抜けるためにものすごいモチベーションが、自然と生まれるものだ。そう・・・それが恋・・・笑。そこに無理して戦略を持ち込もうとすると、目が曇るよ。焦りは、結論を早く与えてくれるかもしれないけど、大事なのは結論ではなくて、中身でしょう。

だから、ウェブ検索で答えを探そうとなんてしないでほしいんだよね・・・いやマジで。焦って、どこかに答えを探そうとする必要なんてないし、右に行ったらいいのか、左に行ったらいいのかわかんないなら、とりあえず行ってみて、自分のハートに聞いてみたらいいよ。すぐに答が出せなかったとしても、一番よくないのは立ち止まって考える事だと思うしね。

やりたいことがない、モチベーションが保てない。まあ、そんなもんだよね。それが全員の出発点だと思うよ。だからこそ、とりあえずパソコン閉じて、面白そうなこと、やってみようよ!その経験が情熱を生み出すならば、本当の悩みがそこから始まると思うよ。

動け!!!