Betsyの話

今日は、とある女性の話を書いてみます。

ここのブログの読者は30歳前後の人が多いのですが、この話の主人公は同じ年代のふつうの人です。

彼女は、素敵な男性と出会い、長い間付き合っていて、結婚を前提に、二人で家を買って住んでいます。

まだ結婚していない人はこれから自分に起こることだと想像してみてください。

もう結婚した人は自分が結婚する直前の事を思い出して、自分にこれが起こったと想像してみてください。

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彼の誕生日を二人で祝った数日後、彼はステージ4の肺癌であると診断されました。つまり、末期癌です。

最初、彼は「なんだか胸のあたりが痛いからお医者さんに行くね」いっていました。お医者さんも、単なる胸焼けか何かでしょうと言っていたので私も彼もあまり気にしていなかったのですが、実はその時にはもう彼の肝臓や脳に転移が進んでいたみたいです。みんな「タバコ吸ってたからでしょ」って言うから言っておきますが、彼はタバコを吸いません。私も彼も、タバコのにおいが好きじゃなくて。とにかく、血液テストでもがんのテストは陰性だったんです。

その夏のとある金曜日に、彼は私の携帯に電話をくれました。なんだか不思議な声で、用件があるから、家に帰ってから話すからと。今になって驚くのは、彼はお医者さんに午前中に告げられたことを、午後いっぱい、私に会うまで誰にも言わなかったということです。どんな気持ちだったんだろうと。

何年も付き合ってきた元気な彼が、末期癌と診断され、ほぼ確実に死んでしまうと聞いたとき、おなかを急に思い切り殴られたような、そんなショックがありました。お医者さんは余命について教えてくれませんでした。でも彼はインターネットですぐに調べていて、ステージ4の肺癌に診断された人は、大体1年ぐらいで亡くなっているそうです。5年もった人はいないとか。

私はもう、どうしていいのかわからなくて、とにかく泣きました。彼も泣いていました。夢だったらいいのにと思いました。いろんな人生のプランが急に真っ暗になって、先が見えなくなりました。

少しだけ落ち着いてから、まずは親戚とか仲のいい友達に報告したほうがいいよね、ということで、リストを作って一人一人電話していきました。電話の向こうから聞こえてくる言葉に、ああ、私たちはこんなにも大事にされているんだと気づかされて、それがなんだかショックでした。

それから、私たちは殆ど眠れませんでした。しばらくして、放射線治療が始まったころ、お医者さんが彼に、「睡眠薬を処方するのを忘れてごめんなさい」と言っていたそうです。私も眠れなかったのですが、私向けにはそんな話すらなかったです・・・癌が宣告された人の妻や恋人にも何か処方したほうが良さそうなのにね。

 

そう、それで私たち、結婚することにしました。

一緒に暮らせるように一緒に家を買ったところだったし、結婚はどちらにせよするつもりだったんです。

 

まだ結婚していなかったのは、私は大げさな結婚式とか好きじゃなかったし、彼も急いで結婚したい感じじゃなかったという事で、なんとなく「仕事がひと段落してから結婚しようか」という話をしていたからです。だけどこうなった今は、今結婚したほうが、彼が死ぬ前に言葉が話せなくなったときに私が代理で話せるし、一緒に買った家の相続をどうするんだといった手続きも色々あるみたいなので、私も結婚したほうがいいと思いました。結婚式には60人が集まってくれました。その日はとても暑くて、記録的猛暑だとニュースになっていました。ちなみに、シンプルで、カジュアルな結婚式のほうが、参加者の皆さんがリラックスできるからオススメです。話がそれましたけど。

それから、私たちは二人でブログを始めました。彼の様子について多くの親戚や友人が確認したいと思うのですが、「彼の具合が悪くなりました」という同じ話を、電話で何度もその度に説明するのは辛いし、そういう話を聞いた人も言葉を失ってなんて私たちに言葉をかけていいのかよくわからないと思います。でもブログならコメントをすることもできる。そうやって、ブログが私たちのコミュニティみたいになりました。

癌というのは、ゆっくりと死に至る病気なんですね。癌の苦しみというのは目に見えてわかるところは氷山の一角なんだなと思いました。私も、髪の毛が抜けて(放射線治療と化学療法のせい)、体重が増えて(放射線とステロイドのせい)、その後減って(薬の副作用で)、といった症状があるのはなんとなく知っていたのですが、実際には目に見えない部分が多くあります。吐き気が頻繁にやってきたり、味覚が変わってしまったり、しゃっくりが何時間も続いたり、何かの薬の副作用でにきびができたり、足の神経症(神経痛や感覚の消失)、飲み物の温度に対する知覚過敏など、いろいろと生活に支障がありました。

投薬治療の3年間、彼はがんばり続けました。残された時間を嘆きながら過ごすのは嫌だ、癌に全力で立ち向かうんだと決意していました。彼は自分でできることを人に頼んだりしませんでした。悲劇のヒーローとして話題の中心になるのも嫌いでした。私たちは、必要なときだけ癌の話をして、そうじゃないときは普通の話をしながら、普通に過ごすようにしていました。

一時期、彼の具合がとても良くなって、私たちはなんと、2週間海外旅行に行くことができました。ガイドさんには、ちょっと具合が悪くて歩きにくい時があるとだけ伝えておきましたが、特に問題なく旅行を終えることができました。普通のカップルみたいな旅行が本当に嬉しかったです。

2009年の1月に、私の会社がレイオフを発表して、私は急に解雇を通告されました。でも私はとても嬉しかった。だって彼ともっと一緒にいられるようになったから。

でもそれも長くは続きませんでした。翌月のある朝、彼がお風呂場から「ちょっと来て」と叫んでいて、私は飛び起きました。お風呂場にとびこんでふらふらの彼を肩で支え、ソファーにゆっくり、ゆっくりとおろしました。何かの発作で震えているのを見て、すぐに救急車を呼びました。救急隊が来たとき、彼は大丈夫だからと自分の足で救急車に乗ろうとしていました。私は着替えをつかんで救急車に乗り込みました。彼は緊急治療室に運ばれました。何度か発作を起こした後に、検査が行われました。

退院した時、もう命の終わりが近いこと、もう癌と戦うのは諦めなければならないことは認めざるを得ない状況でした。

彼は7月までがんばりました。ホスピスに出たり入ったりしながら。家にいるときは、もう階段を上ることができないからいつも一階で過ごしました。背の高い彼が快適に過ごせるように、とびきり大きなベッドを借りました。

私は介護したことなんてありませんでしたが、彼の専属看護婦さんになれるように勉強しました。必要な薬をあげて、肺から水を抜いて、お風呂に入れて、元気なときにベットから出たりして。ぎゅっと抱きしめるっていうのは、動けない人を動かすときにとっても便利でステキな方法ですよ。

彼はコンピュータやゲームが好きでした。友達が面白いガジェットを持ってきてくれて、ホスピスの部屋で一緒に組み立てたりしました。彼がなくなる前の週にも、私の古くなったパソコンを直してくれました。

最後の2日間、彼は寝ている事が多かったのですが、彼は自分がもうすぐ死んでしまう事はわかっていたみたいでした。ちょっと意識がはっきりした時に、私と、付き添いの介護の方にささやきました。「死ぬって、どうやったらいいのか、よくわからないね。」

私はこう答えました。「そうだね。でも、たぶん、わからなくていいんだと思う。きっと、生まれるのと一緒で、意識するものじゃなくて、自然に起こることなんだと思うよ。」

私は、ベッドの彼に、「あなたの事が、好きだよ」って、心をこめて言いました。彼が逝くときに、寂しくないって、思ってほしくて。聞こえていたのか、理解できたのかわからないけど、伝わっているといいな。

彼はちょうど夜の12時ぐらいになくなりました。誕生日の二日後、ほぼちょうど癌の診断を受けた3年後でした。

彼のご両親も、私の両親もそこにいました。何かあったらと呼んでおいた看護婦の方が、脈拍が止まったのを確認して、彼が亡くなった事を告げました。それから「葬儀業者の方に彼の遺体を引き取ってもらうように」と言われました。それから、いろんな事がありましたが、よく覚えていません。とにかく、いろんな事がありました。

 

彼が死んだ瞬間のことは、きっと一生忘れないと思います。彼の首の筋肉が頭を支える力を失って、うなだれているようで。顔が少しずつ白くなってきて、青ざめて、それから静かな死が訪れました。その瞬間に、彼という存在は、私の心の中の人になりました。今でも、こうやって、その瞬間のことを書くのは辛いです。

私は家に帰って、久しぶりに2階のベッドで寝ました。彼がいないベッドがこんなに広かったのかと思いました。

お葬式が終わって、彼の遺骨を受け取りました。「その瞬間、彼の死を悟りました」なんてことは思わなかったのですが。彼が私の目の前で亡くなる瞬間は彼の死を感じる上で十分にリアルでした。ただ、静か過ぎて、美しすぎる火葬場のロビーで、私の愛した人が小さな箱の中に入っているのを渡されたとき、大事な何かがもう本当に終わったんだという、恐ろしいほどに動きようのない事実が、ただそこにありました。なんだか涙が出て息がむせました。

それから、色々と役所とか銀行とかそういった所との事務的なやり取りがたくさんありました。私はそもそも、そういう事務手続きが苦手で。口座の移行がどうだ、証明書が何通必要だとか。それで、電話して、「私の夫が御社のサービスを利用していたのですが、このたび他界しまして・・・」と言って回って、「それはご愁傷様です」と、同情したような、慣れたようないわれ方をされるのも、なんだか辛くて。一人になって新しい仕事を探すのも、あまり前向きになれませんでした。

もちろん、彼の何気ない冗談とか、私が愛した彼の全てを思い出すと、とても切なくなります。ただ、身勝手と思われるかもしれませんが、私がとても苦手で、彼が助けてくれていたことがこんなにあったのかと気づくとき、いちばん辛く思います。

だんだん、彼が設定してくれた家のパソコンやネットワークの調子が悪くなっていて、私には何が悪いのかもわからないのに、彼はもう直してくれない。

 

私が疲れているときに料理してくれたのに、もうしてくれないし。

 

私の代わりに買い物に行ってくれたり、銀行口座とかお金の管理をしたり、私が泣いていたら優しく寄り添ってくれたり、くじけそうな時に「がんばれよ」と背中を押してくれたり、私が感情的になって騒いでいるときに優しく落ち着かせてくれたり。いつも優しかったのに。そうやって当たり前のように支えてもらっていた事がなくなったのがつらくて。

 

彼が教えてくれた多くの事、彼が守ってくれた多くのこと、彼が私にくれた多くの影響があって、でもそれはもうなくて。まだ、彼がいない人生に慣れていない気がします。彼のいなくなった私って、誰なのかを想像して、そういう人間になれるようにならなきゃいけないのが、一番つらい気がします。

 

ただ、彼を失ったことで私は少しだけ勇気を持つことができた気がします。その勇気を振り絞ってアドバイスがあるとすると、もし今もしあなたの愛する人が生きているならば、いつか二人でやろうと夢見ていたことをすぐに始めたほうがいいとおもいます。

 

Quora という Q&Aサイトより。原文を書いたのはBetsy Megasさん。本人の同意の元に僕が訳しました(けっこう意訳です)。最後のアドバイスは、彼女の僕に対するものなので、原文にはありません。

 

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今回、癌という、誰にでも起こりうる病気で旦那さんを失ったBetsyの話をして何が言いたいのかと言うと、「愛する人の死を具体的に想像することはとても大事なのではないか」ということです。

これはとても難しい事だし、すごい想像力が必要です。しかも、失ってみるまで、その気持ちを「完全に」理解することはできないでしょう。ただそれでも、想像する努力はすべきだと思っています。なぜかと言うと、人間というものは勝手なもので、失ってみるまでどれだけ相手が大事だったのかなんてわからないことが多いからです。そして、「わかっていたならばあれをしたし、あれをしなければよかった」という後悔は、ほとんど確実にやってくると思います。特に、急な死であればあるほどに。

死は例外なく誰にでも訪れるし、親は当然ながら、子供だっていつ事故で死ぬのかわからないわけで、後悔するとわかっているのであれば、後悔しないように色々と考える必要があると思います。ただし後悔を減らす上での最大の障壁は、前述のように「自分が相手をどれぐらい大事だと思っているのかを想像できない」ことにあると思います。だから、その障壁に対して一番良い方法は、相手がもしいなくなったら自分がどうなるのかを具体的に想像してみる事なんじゃないでしょうか。

もし、親、結婚相手、子供など、愛する人がいなくなったら?「カラーテレビの世界が、白黒の世界になってしまった」と聞いたことがありますが、それはどんな世界なんでしょうか。

そうやって想像してみてから、ふと現実に帰って、実は愛する人が生きている世の中に帰ってきた時に自分は何をすべきかを考えたら、ひょっとしたら後悔が少しだけ減らせるかもしれないと思います。そして、「朝起きたら、その人が生きている」というだけで、感謝できるようになると思います。

同様に、そうやって自分が死んでいくことも想像することで、自分が生きている間にやるべきことに集中できるようになるかもしれない、と思っています。

順番が分からないだけで、僕もあなたも死ぬし、僕たちが愛する人も全員、確実にいつか死にます。世界の人口が何十億人いようと全員が。なのに僕たちはその事実を感じることすらできないから、やるべき事をやらず、やるべきでない事をやってしまいます。ただ、死を他人事ではなく(実際に他人事ではないのだが)、リアルに感じることができる想像力さえあれば、きっと人生の後悔を減らすことができると思います。

 

現代ビジネスにインタビュー記事が掲載(後半)

僕のインタビュー後半です。急いで書いたんで誤字脱字がすごくてすみません。

エラソーにこんなインタビュー書く立場でもないのですが、このような機会を与えて下さった田村耕太郎さんに感謝いたします。どうもありがとうございました!

偏差値30台からハーバードMBA合格! そして米国で最高峰の就職(その2)~学歴・国籍・人種などで自分自身に制約をかけない生き方を

学ぶ人

学ぶ姿勢のある人は、様々な文章から、自分にないもの、学ぶものや感動するものを引きずりだし、身につけて成長しようとする。学ぶ姿勢のない人は、同じ文章から、相手は間違っている、だから自分は変わる必要はないと言える部分を探し、批判して満足する。

学ぶ人は、誰からでも学ぶ。例えアドバイスしている相手からでも、教え子からでも、子供からでも学ぶし、学ぶ機会を探しては吸収していく。自分を変える機会を探している。学ばない人は、見下せるターゲットを通じ自分は正しいと主張できる機会を求めている。自分を変えない理由を探している。

学ぶ人は、自分が変わる事が目標であり、誰が正しいとか正しくないとか、上とか下とか好きとか嫌いとか関係なく、学んだかどうかに貪欲にフォーカスしている。学ばない人は、批判を通じて自分が他人より優れていると主張し、「そうですね」と共感してくれる人を集める事に貪欲にフォーカスしている。

学ぶ人は、相手の生まれた国、所属、経歴などの過去によって解釈を曲げず、本人そのものを見て大事な事を探す。学ばない人は、相手の生まれた国、所属、経歴などによって相手をカテゴリー分けし、グループで否定することで関連のない解釈を与えようとする。

学ぶ人は、出会いを求めている。学ばない人は、一緒に他人を否定できる仲間、つまり自分が変わらないでいいと思わせてくれる仲間と群れる。

世の中には、いろんな人がいて、いろんな意見があって、いろんな文章があって、いろんな人生があふれている。しかし同じ世界を見ても、学ぶ人は感動し、学ばない人は下らないと思うだろう。自分が見たものが、自分の人生にどんなインパクトが生み出すのか、という重要な因果関係は、ほとんどがその目を開く前に、自分が何を探しているのかで決まっている。

学ばない人生を選ぶのも本人の自由だし、本人が満足しているならそれでいいと思う。ただ、同じ世界には違う真実もあるわけで、学ぶ人生の良さを見過ごしているのだとしたら、一度立ち止まって考えるもの良いのではないだろうか。なぜ、そんなに他人を否定したいというモチベーションが自分の中に生まれたのか。例えば、なぜまさにこの文章に凄く反論したくなり、「それはお前が○○カテゴリーだからそう思うんだ」と言いたくなるのか。僕がバカで間違っていて、自分がとても優れていて正しかったとして、それが自分にとって何なのか。

学ぶ人は変わる。学ばない人は変わらない。

学びがあふれる世界と、下らない世界の違いは、世界を見る目を開く前に、自分の姿勢が決めている事ではないだろうか。

(さっきツイッターに書いた事の編集です)

現代ビジネスにインタビュー記事が掲載

田村こうたろうさんによるインタビュー記事が現代ビジネスに掲載されました!

こういったインタビューでは偏差値30台が強調されますが、僕は「勉強ができないバカだった」というより、「つまんないとやってもできない星」に生まれた「つまんないとやってもできない星人」であったということだと思います。そして同じ星に生まれた仲間は他にもいるはずだ!

偏差値30台からハーバードMBA合格! そして米国で最高峰の就職(その1)~ボリュームゾーンからのグローバルキャリアのつかみ方

今週も楽しく行きましょう!

ショパン 別れの曲

(注:最後まで読んでください)

弾いてみました。

僕じゃなくて、僕に似ているというウワサの、ドイツ人の方が。笑

「君は、こんなワクワクする世界を見ずに死ねるか!?」がやってきた


結論: 死ねない。

と、いうわけで、うわさの「君ワク」が遠路はるばるボストンまでやって参りました。送って頂いた田村さん・マガジンハウスさんありがとうございました。

さて、僕は書評なんてやったこともないのですが、今回は僕のインタビューもちょっと載っているのもあって反応してみようと思います。

この本は、田村さんご本人のごとく、ポジティブパワーと日本・世界への愛がミナギリまくった時速180キロのアツい本で、海外で活躍したい、という人には必読でしょう。「なぜ今海外なのか」「海外で生きるとはどんな世界なのか」「具体的なアプローチはどうあるべきなのか」といった内容。それだけ見るとまあよくありそうな構成なのだが、この本の最もアツいところは、

  • これは田村さんが自分自身の足で歩いて見て来た世界について、自分自身の肌が吸収したことがそのまま書いてある
  • そして田村さんほど世界の面白そうな人に直接会いまくった日本人は世界にほとんどいない

ということ。他にも色々海外関連の本は多いが、海外で働いている人間からすると現場感がなくてしっくり来ないものも多い。しかし、この田村さんの本の内容は「直接聞いて吸収した感」が半端ではない。なんせ、情報を集めている元の人がレベル高い・・・リークワンユーとか普通は一生会えないような人から、田村さんは普通に情報を収集しまくっておられる。

(参考までに、田村さんご本人のネットワーキング力と、情報収集能力は半端ではないことはお伝えしておきたい。さながら嵐のように情報を収集されていく。ボストンにいらっしゃった時は、携帯からどんどん連絡が来て、ランチで会うと怒涛の質問攻撃で、ブラックホールのように情報を集めて「ありがとう!また!」)

世界レベルで活躍できるポテンシャルのある若者にパワーを与え、10年後・20年後の日本社会に貢献するような日本人を育てたい。そんな願いがこめられた本だとと思う。

そういう意味では、その高い理想(例:とりあえずアメリカのトップスクールへ行け等)についていけない人もいるかもしれない。でも、これからの日本の事を考えると、そんな事言ってたらすごい人を育てる事はできないといことで、これから読む人は、この本を通じて田村さんのそういうアツい願いと心意気を、感じ取ってもらえればと思っております。

日本を変えるような凄い人になろうとなるまいと、世界はとてもワクワクするものであることを早いうちに感じておくのは、自分らしい生き方をデザインしていく上で、とっても大切なことだと思う。そういう意味でも、こういった本から外の世界を垣間見る事は、多くの人にとってとてもポジティブな刺激になるだろう。

これを機についにアマゾンのリンクを作ってみた・・・

安定した仕事

最近の学生と直接交流してみると、僕が想像していたよりもかなり安定を重視しているように感じる。だから、クビになったり転職したりしながら生きている僕の人生はやたらリスクが高いように見えるらしく、「そんなリスクとって不安じゃないんですか」「古賀さんの考え方は変わってる」みたいな話をいっぱいもらう。それを見て、正直言うと、「なんだか今の学生は老人になってしまったな」と思う。(もちろん人によるので「学生」とひとくくりにするのは問題があるとは思うけど、割合として)。心配なのはよくわかるし、合理的だと思う。しかし、安定を求める方法が「過去に安定してた企業に今になって入る」じゃ、むしろ不安定まっしぐらに見えるわけでありまして。
そこで今回は、ちょっと「安定」について話をしてみたい。なんか長くてまとまってないけど、週末にあまり時間使いたくないので許してください。笑
経済が不安定なんだから、不安になるのは当たり前
もちろん不安の原因は、経済・企業がこれから不安定になるからに他ならないだろう。不安定だから不安に思うのは当たり前だと思うので、これはよくわかる。これから、安定していたはずの企業がつぶれたり、統合されて重複が切り捨てられたり、海外に買収されていろんな部門がつぶされたり、いろいろするでしょう。それは残念ながら、現在の政治・経済の情勢や、少子化、世界における相対的な地位の低下だけでなく、そうした状況をなかなか変えられない日本の様々な組織への落胆など、いろんなものがあるのだと思う。
それはそれでしょうがないのだが、もしそうやって企業が不安定になっていくと思って不安なら、過去のデータとかランキングとかを見ながら「安定した企業」とやらにに守ってもらることに集中し、そこに雇ってもらえればもう安心と思うのは、矛盾していると思うわけです。いやだから、そういう企業も不安定になるかもしれないという環境を心配しているんですよね、と。
「人気企業」が大規模レイオフをするようになる時代が来る?
過去においては、日本は経済も伸びて雇用も増えてきたわけだから、安定した企業に入れば雇用は増え続けるので解雇もなく安泰だった。でも、将来は、経済が伸び悩み雇用も減るわけだから、安定していた企業が大規模なレイオフをする時が来るというのがとっても自然な考え方だと思う。
そう、レイオフ。
過去に安定していたはずの企業が、10年とかすれば、大規模なレイオフを行わなければならなくなるかもしれない、と思う。そうしないと会社がつぶれてしまう、という二択を迫られれば、解雇規制を変えてでも、やるしかなくなる時が来るのではないだろうか。
安定を求める人が集まる企業は数十年後はヤバイ気がする
企業は、これまでと同じ事をやっていたら縮小していくのだから、リスクをとって新しい事をするしかない。そんな状況で、「安定を求めて入社しました」というタイプの学生が集まるような会社で、大丈夫なのだろうか?そんな安定志向の学生が30年後に経営者になったころ、リスクをとって利益を生み出せているだろうか?むしろ、逆な気がするんですが・・・。安定を求めて入る学生が多いような組織は弱体化するだけではないだろうか。
もちろん、「安定した企業は必ずレイオフする」とまでは言えない。しかし直感的には「安定したい」みたいな人が集まる共産主義的な企業はその時点でかなり衰退の匂いがしていて、将来の大規模レイオフ候補企業に見えてしまう。企業なんてしょせんは人間が経営してるんだから、そんなもんだと思うんだよね。皮肉にも、「安定を求める人が集まる企業だから不安定になる」なんてことになるかもしれない。
安定を求めて入るような人が集まる会社はもう、大胆な自己変革ができずに傾き始めているのでは、というウワサもありますが・・・。
と、ここまでが、長い前置きで、以下が僕の考えです。
若い時に、企業に安定を求めるのはリスクが高すぎる
振り返ってみると、そもそも出発点として、日本のマクロの経済要因のせいで、企業に安定して勤める事ができるか不安だ、というところから始まっている。それが正しいとすると、
  • 「日本の企業はこれから不安定になる、だから安定した企業に入る」というのは説得力があるように感じられない。(そういう企業が危なくなるかも、という話なので・・・)
  • 「日本の企業はこれから不安定になる、だから企業に守ってもらう事を前提とするのは危険」というのならば、わかる。
つまり、「不安だ」はわかるが、「不安だ→安定した企業に就けば大丈夫」という論理は、とてもヘンだと思うのである。
そもそも、ビジネスにおいて絶対の安定なんてものはない。さっきも書いたが、日本は経済も伸びて雇用も増えている特別な時代はとっくに終わったわけで、競争力が低下している大企業がレイオフしないで生き残れるとも思えないんだから、レイオフなんてもんは、一定の割合でされるもんだ、と思っている。
「安定」とかいうけど、無理だからそんなの。いや、そりゃあったら嬉しいんだけど、僕はとっくに諦めている。だから、これから経済が不安定になって、大企業でのレイオフが起こるようになるかもしれないというのに、20代で「安定を重視しています」なんて、僕にはリスクが高すぎてとても言えない気がする。僕には「安定」なんて言う精神的な余裕はないかもしれない。
社会に出ると保護者がいなくなるので、会社に保護者になってほしい気持ちはわかるんだけど、大人になったら保護者なんていないので、最終的には自分で安定を生み出すしかないと思うわけです。

安定をもたらすのは実力のみ
企業が守ってくれないならば、自分の実力だけでしょう。「はい出ました実力!」とバカにされるかもしれないけど、まあ、それが悲しい現実だと思うんだよね。
そういやこの前、GoogleのDon Dodgeという人が弊社のイベントにきていたので、世間話をしていたとき聞いた話。彼は、米マイクロソフトをレイオフされたのだが、メディアでアナウンスされた数分後にはGoogleからすごいオファーが来たらしい。スゲー!!と思った。まあ彼は米マイクロソフトで最も有名なエグゼクティブの一人だったので極端な例だとしても、僕が言いたいのは、安定してるというのは「会社に属していなくても、個人として強いという状態」だと思う。そういう実力があれば、「雇ってもらえないと不安」なんて事にはならないわけで。
これはめちゃくちゃ難しい。そう、安定するというのは、そもそも、大企業が守ってくれればOKなんて単純な話よりも、本来めちゃくちゃ難しいのだと思う。
なお、安定しているというのは、(貯蓄がすごい人を除いて)「過去の投資のおかげで困らないだけの一定収入を得られる」という状態だと思う。つまり、投資回収モードに入っても、回収量が十分にある人は安定している、と思う。自分の実力で安定するには、当然、自分に投資をしなければ無理だと思う。
(実力をつけるためにはどこで働くべきか?それが大企業かベンチャーかなんてことは小さな問題だし、どんな職種かというのも小さな問題だ。そもそもみんなと同じ事をやっていたら価値なんてだせないんだから、なんかそういう、就職先のカテゴリーっぽい「正解」があると思う事自体にすごく問題があると思う。そして、つけた実力が社会に求められるかなんてわからないので、努力さえすれば報われるとも限らない)

いつから投資回収に入るか、が大事

前述のように、会社が頼れないのであれば、安定は実力への投資回収によって生まれると思うのだが、結構大事なのは、いつ実力を求めて投資をし、いつ回収するのかだと思う。企業の安定だって、大抵は「これからこのビジネスが伸びる」と思うものに設備投資し、それが当たった時に生まれる。人間でも同じだと思う。将来の安定のために事前にリスクをとって投資せずに、将来何をもって安定を生み出せるだろうか。
僕は、今の時代は、20代とかに「安定」とか言って余裕かましている場合ではないと思う。特に、もし将来の結婚とか育児とか考えているならば、安定なんてもんは子供が大学行くころに最も必要なものである気がする。にも関わらず、20代の、傷つくキャリアすらない学生が、安定ばかり求めて生き方を決めてしまうのを見ると、すでに投資回収モードに入った撤退モードの老人みたいに見えてくるのである。
「若い時、余裕を重視し、本当に安定が必要なときに路頭に迷う」というのも、「若い時に不安定の中でサバイバルできるようにして、不安定になっても食いっぱぐれないように実力を育てる」というのも、リスクが前か後かの違いでしかないのかもしれない。しかし、投資というのは基本早期に行ったほうがリスクが低いし後から長期回収できる。さらに、日本の経済はこれからさらに不安定になるのであれば、路頭に迷ってから「手に職を」とか言っても既に手遅れになってしまうかもしれない。

だから、僕から見ると、「安定」とか言ってる学生はリスク取りすぎに見えるわけですよ。これからの日本で、「安定を重視してます」って、そこまで余裕かましていて大丈夫なのかと。
僕には「安定を求める」というリスクとる勇気は無い。今も、まだない。
そしてこの、「安定したいならば、人生の前半に投資し、経験を積んだら後半に回収すべきで、最初から回収モードになるべきではない」という話は、どんな職歴でも、学歴でも、能力でも、同じ考え方が適用されると思う。

高速に回転する駒だけが安定する。例え過去にどんなに安定して回転してきた大きな駒に身をゆだねても、減速すればあっけなく倒れる。もう、そんなの、たくさん見てきたでしょう。だから、自分自身が回転し、成長し、変化して、実力を高めることで安定を生み出すのが、最もリスクを取らない戦略だと思うのであります。

また明治大学での講義 / 国際キャリア特論

先日、奥さんに「あなたは昔、カモメの水兵さんの曲の白い帽子白いシャツ白い服のくだりを、MECEではないと批判していた」と聞いて、われながら自分は最低人間だと思った今日このごろですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

ぼちぼち明治大学で講演したり講義してますが、また再びやる予定であります。

  • 場所: 和泉第一校舎 002教室(地下1階)
  • 時間: 6月19日火曜日 5時限(16時20分より)
  • トピック: よくわかんないけどたぶん留学の話だと思う

実は、去年も同じトピックで講演頼まれてまして、動画はこちらで公開されております。

ということで今回は、「去年も同じ授業シリーズの同じトピックで講義したのを録画して公開してますし、また僕がやる意味がないと思うんですが。夜中のビデオ講演なので仕事に支障がありますし」とやんわり断ってみたのですが、「しかし、それでも古賀さんには1年生に直接語りかける機会を持っていただきたい」(=知るかボケ!)と押し切られたのでがんばります。

何はなしていいのかわからないので、Twitterでコメントしてもらえると助かります。

今回もビデオ会議になります。アメリカでは午前3時20分から講義します。たぶん明治大学は僕の事を殺す気です。

グチっぽいですが、当日になるとノリノリだったりするタイプなので気をつけてください。

それ本当にやりたいの?

「こういう仕事がやりたいのだが、どうすればよいか」というアドバイスを求められた時、やりたいと言っている事に関して行動が伴っていない人が多い。そしてこういう人の特徴は、「今やっていることがやりたくない」ということだ。本当は「これがやりたい」ではなく「これならやりたくなくないかもしれない」という希望なのだと思う。でも「やりたい仕事」がどんな仕事なのかという現実に興味があるわけではないので、行動は伴わない。

これはとても怖い事だと思うから、ちょっと書いてみる。

あくまで例だが、「どうしても保母さんになりたい」といっていた人が、保母さんになって1年後に「やっぱり保母さんなんて全然やりたくなかった、実はエジプトで考古学者をやりたいと思っているが、アドバイスが欲しい」と言ってきたら、あなたはどう思うだろうか?「あまりに違う選択肢だけど、本当かな」とは思うだろうか?僕は、その時点では「本人の中ではつながっているのかもしれないし、実際にやりたいのかも」と思うけど、もし実は本人がそれをやりたくない場合はアドバイスする事自体が無意味なので、一応本当なのか確認することにしている。

こういうとき、「なぜエジプトで考古学者なのか」を聞いても無駄なので「エジプトの考古学に関し、具体的に何をした事があるのか」を聞く。つまり、こういう事を聞いてみる。「今、仲の良いエジプトの考古学者はどれぐらいいて、彼らとどれぐらい会っているのか。考古学じゃなくても、海外で研究する人たちとどんな交流をしているのか。今は考古学者でなくとも、過去にどれぐらい自分で自発的に考古学を研究したり勉強会やセミナーに参加したりしたのか。というかせめて言語は大丈夫なのか。というかエジプトに行ったことぐらいはあるのか。というかせめて海外に行った事はあるのか。」など。そして多くの場合で、そんなに大きな方針転換の話をしているのに、直接的にも間接的にも、動いた形跡が無かったりするのだ。

そもそも、「何かがやりたい」と話をされた時に、「なぜやりたいのか」なんてことは、いくらでも自己洗脳してでっちあげることはできるので聞くだけ無駄だと思う。一方で、「関連することで、実際過去に何をしたのか」はでっちあげることはできない。そして、「どうしてもやりたいけど実際に関係することに努力をしたことはほとんどありません、でもどうしてもやりたいんです」なんてことはどう考えても不自然なのだ。「経験が情熱を生む」でも書いたが、やった事が無い事に情熱なんてフツー生まれないし、そんな話は「この食べ物が大好きなのでどうしても食べたいんです、食べたこと無いけどネ!」というのと同じぐらいヘンだ。

にも関わらず、なんで多大な努力が求められるような目標を立てるような覚悟が生まれるのだろう?その情熱はどこから来るのだろう?それは、今やってることが半端ではなく嫌だというネガティブな情熱があるからじゃないだろうか。だから、「ぜんぜんやったことがない、よくわからないものであれば、嫌ではないかもしれない」という逃避のための希望を見出そうとしてしまう。そして行動が伴っていないのは、「やりたい」はずの事に対して、大して情熱も興味もない証拠である。

しかしこういう形で意思決定するのは不幸になっていくリスクがとても高い。嫌なことから逃避はできるかもしれないが、そもそも「半端ではなく嫌なことを、やりたいことだと勘違いした」という前科があるのだから、次も同様に半端ではなく嫌になるかもしれない。半端ではなく嫌なことをして生きていくのはつらい。

「自分が一生やりたい仕事」でも同じようなことを書いたけど、やりたいことなんて、わからない人にはなかなかわからない。だからお勧めなのは、よくわからないなら壮大な目標を立てないことだと思う。なぜなら、「それがやりたいかどうか」を検証するのにかかる時間が長くなるので、やりたくなかったときに人生の無駄が痛いからだ。例えば千里の道の3歩目ぐらいで嫌になるならば大して千里も進みたいと思ってないのだと思うし、嫌なのに五百里ぐらいまで無理して進むから半端ではなく嫌になるのだと思うし、それで10年かけて千里進んでやっぱり死ぬほど嫌だったでは目も当てられないわけで・・・。

だから、まずそれよりもっと小さい目標を立てて、色々な経験をつみながら軌道修正していって、本当に情熱が沸くものがあればポジティブな情熱を投入するほうが、とても自然な生き方だと思うよ。「会社の幸せと個人の幸せ」で、転職するのは自然と書いたけれども、ネガティブな情熱で安易に転職していいという意味には捉えないで欲しいというのもあって、今回はこのお話を書いてみました。

どうでもいいけど、昔の記事にいくつかリンクすると、なんか過去の資産で食ってるみたいでなんかイケテナイ気分になります(そして一円も食えてはいない 笑)。

さらにおまけ: 以前、「MBAの志望動機に嘘を書いて、面白くしたほうが合格しやすいか」という質問を受けた。正直な質問ですばらしい。ただ、人の話を聞きなれている人というのは、「あんた本当はそれやりたくないでしょ」というのを簡単に見抜ける気がする。「やりたい」という嘘は、これまで書いた様に本人が意識していなくても、意識して嘘を隠そうとしても、過去の行動を聞けばすぐばれると思うよ。僕もよく仕事柄、MBAの学生とかから「アメリカのベンチャーキャピタルで働きたいんです!」とか言われる。過去にやってきたことを聞くと、それが嘘なのは正直わかってしまう。(本当は日本でインターンしたくないからアメリカで何でもいいからやりたいんです、と最初から言ってくれれば、もっといいアドバイスできるのにな・・・)と悲しく思いつつ、先方も僕に「すみません嘘でした」とははっきり言えないだろうから、やんわりと話を本人のためになる方向に持っていく努力をするんだけど、まあ、こちらもさすがにかなり慣れているので、わかってます。

自己投資

自己投資、という言葉がある。何かを投入することによって、意義のあるアウトプットが再生産されるものを「投資」というんだと思う。

つまり、アウトプットの伴わない「自己投資」は投資ではなく消費である。消費もとても良いことだと思うんだけど、「投資のつもりで消費しているのを気づいていない状態」は良くないと思う。

時間やお金を自己投資に向けなきゃな、とは思う。でも、「自己投資」という魔法の言葉のせいで、がんばっているだけで意味があることをしている気がしてきて、ゆっくり思考が停止してくることってあると思うんだ。そうすると、百万円を勉強(英検一級取るとか)に使おうと、遊ぶ(ゲーム買いまくる)ことに使おうと、特にアウトプットがないなら趣味の消費に等しいという事実を、少しずつ忘れてしまう。

何かを学ぶということと、自己投資をアウトプットにつなげるということには、実はそれなりの壁があると思う。だからこそ、アウトプットにつなげてこそ自己投資だということを忘れないように意識しないと、本当に単なる消費で終わってしまうと思うんだよね。

だから、「自己投資」という言葉に満足せず、アウトプットにつなげることで、自分が使った時間やお金を意味あるものにつなげるように意識して心がけたいと思っています。