学ぶ人
学ぶ姿勢のある人は、様々な文章から、自分にないもの、学ぶものや感動するものを引きずりだし、身につけて成長しようとする。学ぶ姿勢のない人は、同じ文章から、相手は間違っている、だから自分は変わる必要はないと言える部分を探し、批判して満足する。
学ぶ人は、誰からでも学ぶ。例えアドバイスしている相手からでも、教え子からでも、子供からでも学ぶし、学ぶ機会を探しては吸収していく。自分を変える機会を探している。学ばない人は、見下せるターゲットを通じ自分は正しいと主張できる機会を求めている。自分を変えない理由を探している。
学ぶ人は、自分が変わる事が目標であり、誰が正しいとか正しくないとか、上とか下とか好きとか嫌いとか関係なく、学んだかどうかに貪欲にフォーカスしている。学ばない人は、批判を通じて自分が他人より優れていると主張し、「そうですね」と共感してくれる人を集める事に貪欲にフォーカスしている。
学ぶ人は、相手の生まれた国、所属、経歴などの過去によって解釈を曲げず、本人そのものを見て大事な事を探す。学ばない人は、相手の生まれた国、所属、経歴などによって相手をカテゴリー分けし、グループで否定することで関連のない解釈を与えようとする。
学ぶ人は、出会いを求めている。学ばない人は、一緒に他人を否定できる仲間、つまり自分が変わらないでいいと思わせてくれる仲間と群れる。
世の中には、いろんな人がいて、いろんな意見があって、いろんな文章があって、いろんな人生があふれている。しかし同じ世界を見ても、学ぶ人は感動し、学ばない人は下らないと思うだろう。自分が見たものが、自分の人生にどんなインパクトが生み出すのか、という重要な因果関係は、ほとんどがその目を開く前に、自分が何を探しているのかで決まっている。
学ばない人生を選ぶのも本人の自由だし、本人が満足しているならそれでいいと思う。ただ、同じ世界には違う真実もあるわけで、学ぶ人生の良さを見過ごしているのだとしたら、一度立ち止まって考えるもの良いのではないだろうか。なぜ、そんなに他人を否定したいというモチベーションが自分の中に生まれたのか。例えば、なぜまさにこの文章に凄く反論したくなり、「それはお前が○○カテゴリーだからそう思うんだ」と言いたくなるのか。僕がバカで間違っていて、自分がとても優れていて正しかったとして、それが自分にとって何なのか。
学ぶ人は変わる。学ばない人は変わらない。
学びがあふれる世界と、下らない世界の違いは、世界を見る目を開く前に、自分の姿勢が決めている事ではないだろうか。
(さっきツイッターに書いた事の編集です)
「奥さんと不思議な豆」から こちらに入りました。この「学ぶ人」を読んで 心の中でもやもやしていたものが一気に晴れるような爽快感を得ることができました。
そうなんです、そうなんです!そういうことなんですよーという(すみません、表現力もボキャブラリーも小学生並で)感じ。
これ、いろんな人に読んでもらいたい気持ちでいっぱいです。