今日はアメリカのMBA(経営学修士)に関するお話をしてみたい。
MBAを取得すると年収が上がりやすいのもあって、生活費含めて二千万円ぐらいかかるくせにアメリカではMBAは人気の学位である。でも、日本からの合格者は少ないので、実態がわかりにくく、なんかお高くとまっているイメージがあるので批判の的になりやすい。「MBAは時代遅れ」とか「自己啓発セミナーみたいなもんだ」とか「MBA卒を採用したけどあいつら使えない」と批判をすると頭よさそうでオシャレでクールな感じだ。しかし、こういった話はほとんどがMBAを持っていない人の想像に過ぎず、実際はどういうものなのかわかりにくい。
結局、MBAとは何をする場なのか。今日はそんなMBAの実態について卒業生のおじさんの考えを語ります。(注:ハーバードに行ったのでハーバードの経験がベースになっていますが、学校によってフォーカスに違いはあります)
MBAとは【決断】の訓練の場であり、知識を得るのがメインの場ではない
学校のクセに、知識を得るところではない、というところがそもそも日本の多くの人にはピンと来ない部分だろう。知識を得るところに行ってない人に「何を学びましたか」とか「あなたの成功はMBAのおかげですか」と聞いても、はっきりとした答えは返ってこないはずだ。
では、訓練の場とはどういう意味か?それは訓練内容を説明すればちょっとは伝わるかもしれない。MBAの授業は、大半がケースといわれる、「(大抵は実際にあった)ストーリー+データ」が教材である。そして授業では、「こういう状態に自分が置かれたら、どういう決断をするのか、それはなぜか」が延々と問われる。期末試験もエッセイ問題が一問だけで「What will you do and why?」だけだったり。とにかく、「お前ならどうするのか」「お前ならどうするのか」「お前ならどうするのか」と何百ものケースを通じて問われ続ける。千本ノックに近い。
ちなみにハーバード白熱教室という番組でサンデル教授の授業スタイルが話題になっていたそうだが、MBAの授業はああいうアプローチをさらに学生同士の議論を中心にしたものだと考えていい。ほとんどの時間は学生がしゃべっており、教授は議論をファシリテートするだけである。まずとにかく「絶対賛成」「絶対反対」決断をし、明確なスタンスを取ることが求められる。そして両極端の意見の戦いが始まる。「その意見はここを見過ごしている。」「それは一方的すぎる。」「それは絶対に同意できない。」「間違っている。」「それは倫理的に問題がある」という議論が繰り返される。極論同士の戦いの中では、当たり前っぽい議論であっても逃さず議論されていく。(ちなみに、僕もそうだが、日本で育っていると、「そんなに全否定しあうことは無いんじゃないのか」「そんな当たり前のことを議論するなんてアメリカ人はバカ」「極論を言わず、理解を示すべき」と思ってしまうがゆえに、日本人は授業でとても苦戦する。)
教授陣がこういう極論を使った教え方をするには理由がある。議論の両極端を押さえないと、議論の地図の全体を描けないからである。日本人が好きな、「わざわざ喧嘩しないで、中間の解からはじめよう」というスタンスだと、全体の座標上、どこにその意見が位置するのかすらあいまいになる。結局、何を見落としているのかも議論されることなく、そこで思考が停止する。だから、結局現実的に中間地点に落ちるとしても、中間からはじめないで、あえて極論同士をぶつけさせて喧嘩し、お互いの視点の強み・弱みを浮き彫りにしてから重要な論点に落とし込んでいくのだ。
ただしトピックは極めて決断が難しいものばかりである。意図的に正解がない質問が選ばれているからである。例えば、あなたがアメリカの大統領だったら民間にまぎれたテロリストの拠点を空爆するかとか、伸びるかもしれないが現在足を引っ張っている部下を解雇すべきかとか、人の命を救う薬を採算度外視の価格で売るべきか(会社が倒産するリスクを背負ってまで命を救うべきか)とか、貧乏なときから寄付すべきか成功してから大金を寄付すべきかとか、週末に仕事をとるか友人との約束をとるかとか、とにかく、レベルは別としても価値観次第ではっきり白黒つかない話ばかりである。だからそもそも意思決定すること自体がとても気持ち悪い話も多い。意思決定に必要な完全な情報はそろっていないし、最後まで「これが正しい結論だ」という正解がわからずフワフワしている。どちらを選んでも誰かが不幸になるかもしれないし批判されるかもしれないし、こっちが明らかにハッピーエンドの正解みたいな選択肢は提示されない。苦しんで選んだとして、ビジネスの結論は、「その選択肢を取らなかったらどうなっていたのか」を検証できないので結果を相対評価することすらできない。それでもとにかく、自分はこう信じているという自分なりの、不完全な結論を何度も何度も出さねばならないのだ。大抵の重要な人生の決断って、そんなもんだけど。結婚とか。
結局、「何が正しいのか」ではなく、「お前ならどうするんだ」と聞かれている。
「お前ならどうするんだ」
「お前ならどうするんだ」
「お前ならどうするんだ」
このように決断の訓練を何度も繰り返して、何になるというのだろう?ひとつめは、決断プロセスの確立だ。自分のアタマの中で色々な視点を戦わせながら大事な論点に落とし込む事に慣れるということ。「俺はこれをできるに違いない!」と考えると、アタマのどこかで「そんなに簡単にはできない」という反論の声がする。「なぜ?」「こういう3つの障壁があるから」「この二つはこうやって解決できるから大丈夫じゃないか?」「しかし残りの1つは乗り越えられないのではないか」「誰かの助けを借りればいいんじゃないのか」「誰かとは具体的に誰か」「わからないので考えてみよう」・・・こうやって一人でクラスでの議論を再現できる事が大事なのだ。ふたつめは、決断基準の確立だ。難しい決断になればなるほど、「自分がどういう人間なのか」を知らずに答えが出せないものだが、意外と人は自分の決断を迫られるまで自分の価値観を知らないものだ。だからこそ、いろいろな種類の決断を迫られ続ける事で、「自分はこういう人間だから、こういう時はこういう決断をするんだなあ」という自分の価値観がクリアになっていく。例えば、「日本の死刑制度に反対か」と聞かれたら「場合による」「現状維持」という人が多いかもしれない。でも反対派に「それは賛成と同じだ、殺人に加担する理由は何か」と問われたら、自分の価値観をクリアにしないと答えに窮するだろう。自分の価値観がクリアになっていくにしたがって、人はシンプルになって、無駄な事をしなくなって、決断がしやすくなっていく。
こんな感じ。訓練内容がわかって頂けただろうか。もちろん、知識が無意味と言っているわけではない。財務分析とかは知識も必要だ。しかし、最終的には、「学んだ財務分析の手法を使って、教科書どおりの正解を求めなさい」みたいな問いではなく、「あなたはその財務の知識を使って、どう決断するのか」が問われている場なのである。最終的には、全てが決断に落とし込まれていく。
(ちなみに、MBAを自己啓発セミナーと例える人がいるがそれは誤解だと思う。MBAは、自分の意見を戦わせる訓練をする場所であって、黙ってありがたいお話を聞いて帰る場ではない。しゃべるのは自分であり、ひとたびしゃべればボコボコに反論される場であり、それでもしゃべらなければ成績がつかない場であり、だから説得力ある言葉で周りを揺るがす、それぐらいの決断力を育てなければならない。啓発されている場合ではなくて、啓発する側じゃないといけない。)
ホームランはどのように打てるのか、というハナシに似ている
「なんで決断に訓練が必要なのか」という疑問もあるかもしれない。なんでだろう。
突然だが、野球でホームランをどのようにしたら打てるようになるだろうか。もちろん、どのような球種に対し、どのようなフォームで打つべきかといった、「知識」は必要だと思う。でも、人間は本でセオリーを学べば、グラウンドに立ってホームランを打てるようになるだろうか?
答えはNoだ。筋肉を鍛え、何度も打席に立ち、何度も失敗しながら、限られた視覚情報を元に不確実なボールの動きを予測し、どのように打ち返すのかを過去の経験則を統合しながら瞬時に決断し、続けざまに筋肉を正確に反応させるという作業を実行する「訓練」をひたすら繰り返す。
MBAのビジネス上の決断に関する考え方も全く同じである。経験したことがない問題に対して決断するには、何度も不完全な情報を元に、限られた時間内で決断する訓練をすることが重要だ、と考えられているのだ。だから、ケースを重視する。フィールドスタディーという現実の問題に取り組む現場感覚を重視する。ビジネスプランコンテストで実際に起業の準備をしてみることを重視する。やってみては、失敗する。失敗から学び、またやってみる。そういう場所なのだ。
冒頭で、MBAの卒業生に「何を学びましたか」と聞いても、あんまり覚えていない、「あなたの成功はMBAのおかげですか」と聞いても、はっきり答えられる人はいない、そういうものだと書いた。それはホームランも一緒だ。「2年前の夏合宿では何を学びましたか」と言われても「まあ色々なメニューをこなしました」ぐらいしか答えられないし、正直何を訓練したのか覚えていない。「先ほどのホームランは2年前の夏合宿の成果ですか」と聞かれても、「まあそういう側面もあるでしょうけど、それだけじゃないし・・・」となるだろう。しかし、ちゃんと答えられないから、意味が無い類のものではないのだ。単に、訓練とはそういう性質のものだ、ということだ。
「MBAに行って、学びが無かった、無意味だった。不完全な情報を与えられて、適当にアウトプットするだけの、よくわからない場だった」という人は、何か大事な知識を教えて貰えると勘違いして行ってしまったからだろう。
MBAに対する日米の評価が違うのは、「決断」に対する評価が違うから
アメリカではMBAはどう見られているのか。MBAはエグゼクティブの多くが持っていて、転職のときもよく条件として「必須(required)」あるいは「持っているのが非常に望ましい(strongly desired / big plus)」というのを良く見かける。米国のトップスクールに入ると、アメリカの大企業が幹部候補を採用すべくひたすら学生の取り合いを繰り広げる。その結果、アメリカではトップスクールのMBAを出ると、給料が卒業後に数百万円は上がるのが通常であり、そういう意味では他の「大学院」とは扱いが異なっており、MBA卒はわりと重宝される存在である。一方、日本ではMBAはどう見られているのか。そもそも、MBAが必須なんて転職条件に入っている求人はほとんどない。米国のトップスクールにいる日本人のところに、日本の大企業からの求人なんてほぼ来ない。来ても、給与を数百万上げるなんてことはせず、単なる「院卒」カテゴリーに入るだけ。MBAの良し悪しはおいておいて、そもそもなんでそこまで評価が分かれるのか、考えてみましょう。
一見、たかだか2年学校に行っただけで給料をそんなに上げるなんてアメリカ企業はバカなんじゃないのかという気もするが、本質的にはMBAを取ったから給料が上がったわけではない。作業する立場から、決断する立場に切り替わったから給料が上がったのである。そして、優れた決断をするという事は、がんばって作業する事より、はるかに会社が儲かるようになる上で重要だから給料に反映される、という一般論を反映しているに過ぎない。
一方日本の一般的な企業では、優れた決断によって会社に貢献しても給料はあまり変わらないことが多い。というか、日本のエグゼクティブはそもそも決断しない事が多い。取締役会レベルでも、社内役員会議でも、部下から上がってきたよくわからない話を承認したり「もっと調べてから来い」というダメだしをしているだけだったりして。そもそも、答えがわかっている事じゃないと決断したがらない事が多いが、答えがわかっている事に決断など不要である。不確実な状況で、不完全な情報を元に決断するから重要なのである。というか、どっちにしても、MBAをとった若造ごときを決断をする立場におかないので、使い方がよくわからず、とりあえず(決断ではなく)作業させてみたが、あいつ普通やんけ、使い道に困る、あいついらない、みたいなレベルの話になりやすい。だから、世界中の企業がアメリカのMBAの学生をすごいコストをかけて採用しにきている中で、日本からは全然こないのである。
そういう意味で、「MBAは使えない」というのは、使い方によってはたぶん本当である。決断の使い道が無いのに、決断を学んできた人をとっても役に立たないという、とっても美しくシンプルなお話である。だから結局、MBAを使い慣れた外資系に行っちゃうのである。外資系の仕事は少人数でまわすプロジェクトの仕事が多いので、決断の余地が大きいからだ。
実際には幹部候補としてMBA生を採用したいという日本企業もゼロではない。でも、いわゆる日本の大企業が採用にきて、契約ボーナス一千万円で初年度年収1300万円ですという好条件でも、MBAに来ている日本人がなびくことはほとんどない。日本のいわゆる代表的な企業(エレクトロニクスとか自動車とか)が幹部候補といって採用にきても、ワクワクしないのである。なんでかというと、「最初の給料が高いからといって、日本の大企業に入っても、どうせ決断させてもらえないから、学んだ事を活かせるエキサイティングな職場じゃない。決断できないなら、変えられないし、でっかい夢を描けない。」と思っているからだ。
結局、日米の差は、「決断」の位置づけが違う事に起因する部分が大きいと思う。
日本企業におけるMBA派遣はほとんどが「福利厚生」であって「決断」とか関係ない
ちなみに、社費でMBAに行ったくせに辞めるやつが多いのでMBA派遣は無駄だからやめました、と嘆いている会社も多い。うんうん、確かに無駄だから、そういう会社は社費派遣とかやめたほうがいいと思う。
そもそも、なんで彼らがやめるのかというと、会社の経費で決断の訓練を2年もやらせておいて、帰ってきたら決断が求められる仕事を用意するどころか、前と同じような仕事が待っている上に、「お前2年も遊んできたんだから真面目に作業しろ」みたいな雰囲気が待ち構えているからである。他社が「ぜひその経験をうちで活かして意思決定して欲しい」と声をかけてくれているのに、自社に帰った場合は「遊んできたんだから働け」と言われる罰ゲーム的待遇の意味がどう冷静に考えてもよくわからないのである。
ホームページでMBA留学を福利厚生にあげている企業が多いが、MBAは本気で福利厚生つまり「ごほうび」というか「新卒を釣るエサ」であり、会社にとっては単なるコストである。そもそも会社が意思決定できる人材を育てたいからMBA派遣制度をやっているのであれば、それは福利厚生ではなく経営戦略上の「投資」であるはずだ。投資なのであれば、決断の訓練をして帰ってきた従業員に意思決定してもらわないと見合わないはずだ。というか、本気で決断の教育を尊重し、そういう人を活用している企業なら、辞められるどころかMBA生たちから卒業したら入れてくれとお願いしてくるだろう。
「社員が裏切って辞めるから、MBA社費派遣制度は終わりだ!」と辞めた人を責めるのは簡単だけど、そもそも福利厚生だと思ってやってるからそういう考えになるんでしょう。一方的に怒るばかりではなく、MBAホルダーが来たがる会社になっていないこと、つまりMBAが不要な会社なのに派遣しちゃった事が問題である事も認識したほうがいいと思う。
ようするに、「決断」の意味合いが違う大半の日本企業にとって、MBAは福利厚生程度のものであり、使わない能力に関して評価もへったくれもないというだけの事かと思います。
結局MBAは役に立つか?
僕はMBAが良いとか悪いとかいう話をしているのではない。MBAに行った人がみんな優秀ですばらしい決断ができるようになるみたいな極端な話をしているわけでもない。僕が言っているのは、以下である。
- そもそもMBAは知識を得るところではなく、決断の訓練をする場であり、野球でいうと「打つセオリーを学ぶ」ことより「打つ練習」のほうに近い。何か知識がつくと場所だと思って行くと学生側も採用する側も「MBAは使えない」と思うのは当然。
- アメリカ企業でMBAが評価されるのは、「決断力」を重視しているということ。日本企業でMBAが評価されないのは「決断力」とかいう計測しにくいものを若い人に求めていないから。だからといって決断と関係ない仕事を与えれば、「MBAは使えない」となって当然。
- 役に立つかどうかは、ほとんどがマッチ・ミスマッチの問題である。それを踏まえて人の話を聞いたほうがいい。
MBAには、資格みたいに「具体的にこれができるようになります」と言える明確なメリットは何も無い。訓練したから決断ができるようになる保証もない。成功したのがどの訓練によるものなのかを証明することもできない。「必要か」も「役に立つのか」も、決断する力を育てる事が自分の将来にとってどんな意味があるのか次第だ。訓練とはそういうものだ。
というわけで、大変なわりに色々と誤解されやすい学位ではあるが、そういった視点で「自分に役に立つのか」を自分なりに考えていくと良いのではないでしょうか。
決断に必要な情報が揃っていない、正解のない問いを前に、お前ならどうするんだ、と。