アメリカでの就職の話 (1): 内定辞退
長い前置き ばたばたしていて更新が遅れてすみません。。。 今日はアメリカの就職活動の経緯について書いてみたいと思う。Chikaさんに「大変だった模様」と書いて頂いていたように、普通の人に比べたら苦労したような気もするが、のど元を過ぎると苦労など全部忘れてしまうタチなのであまり大変さが伝わらないかもしれない・・・。 長いので、数回に分けます。ご興味のある方だけ読んでいただければ。 えーと。実はそもそも、しょせん就職とか転職とかは仕事の話なので、人生のいろいろな苦労の中では別に大した苦労だとは思っていない。日々の食事が普通にできない金欠状態に陥るまでは、仕事における苦労など大したことはないと思う。もちろん、やりたい仕事が実現できるに越したことはないが、僕は家族が幸せで天気がよければ仕事がどういう状態でもけっこう幸せなのだ。「背水の陣」とか、「覚悟」とか、そういうなんだか怖い単語でディスカッションが盛り上がっているのを見るとすごいなあと思う。そういう話は、僕が成功した後、失敗することにより失うものが大きくなる日まで、関係ないと思う(笑)。 しかし、手を抜いているつもりはないし、努力していると思うので、やる気はあるつもり。確かに、無理そうなことばかりしていると日々つらいこともあるし、ほとんど失敗しかしないからそれはがっかりすることもあるけど、人生で本当に取り返しのつかない事なんてほとんどない思う。たとえ、アメリカで仕事がなくなって日本に帰るしか道がなかったとしても、夢を実現する道はまだ沢山あるんじゃないかと思う。だから、目の前にあるものに努力して、だめなら他の方法を考えれば、100点満点の人生じゃなくてもきっと十分幸せに生きていけると思う。 そういう姿勢なので、なんだかちょっといろいろ「温度差」があるかもしれません、という長い前置きのもと、本題に入ろうと思う。 無職でHBSを卒業 1年生のときは、サマーインターンではテクノロジーベンチャーで仕事がしたかったのだが、やり方も良くわからず失敗。ボストンキャリアフォーラムで見つけたカリフォルニアのヘッジファンドでインターンをしてみたが、性格的に合わずこれも失敗。なので、2年生になって、いちから就職活動することに。 どうしようかなーと思っていたら、たまたま知り合いの日本人の方が働いていたボストンのインターネットマーケティングのベンチャーから声がかかった。僕が渋谷でやっていたベンチャーの仕事にとても近く、面白そうなので面接を受けてみたら、内定が出ることになった。しかし、給料の交渉も終わり、ビザの申請も終わり、オファーにサインしようかと思っていた卒業直前の期末試験中の4月になって、どんでん返しが発生した。 そのベンチャーは数年前に日本最大のインターネットショッピングの会社に買収されていたが、特に日本からコントロールされることもなく、アメリカ人によって経営されていた。しかし、その日本の親会社の社長が、HBSの学生(=僕)が子会社で採用されたことを知り、いきなり僕を親会社へ引き抜こうとし始め、その後親会社と子会社でどろどろしたやりとりが始まった。かの有名な社長さんに「俺の下で働け」と言って貰ったのはありがたいが、僕は親会社で面接したわけではないので僕がフィットするのかわからないし、卒業直前の話としては急すぎるので、ということで断った。そうしたら、「俺の下で働かないなら内定取り消し」みたいな強引な話になってきた。本気だとは思わなかったが、なんだか僕の心の声が「面倒くさいのでやめておけ」というので、内定辞退を即決。奥さんは、「何も仕事がなかったら私の実家の田舎で畑をやれば食べ物には困らない。好きにしたら」といわれ、最終決定。ということで、前代未聞の、HBSを無職で卒業ということで、周りの日本人は呆れていた。というわけで、学生時代の就職活動も失敗。 その事件の数日後に試験が終わったので、スーツケースをまとめてシリコンバレーに一週間行ってみることに。テクノロジーベンチャーといったらシリコンバレーかなと思っただけ。その際にメールでChikaさんに「アプローチを相談させてください」とお願いしたところ、「リスクが超高い、まず無理」という返事を頂いたというのが、Chikaさんのブログの内容(笑)。ただ、僕は「まず無理」「前例がない」という言葉は耳にタコができるほど言われてきているので、「前例なら自分で作ればいいや」と解釈して気にせず。一週間行ってみて、色々な人に会って相談できるだけで、毎日がとても楽しかった。だから、とりあえずシリコンバレーに奥さんと一緒に引っ越すことにした。 アメリカの保険システムはひどく、妊娠していると個人での保険加入は断られる。なので、学校の保険が切れてしまう7月末までに就職先を決めようと思った。家族の健康を脅かしてまで仕事を探すなんて馬鹿げているので。 というわけで、就職先のあてなし、アメリカで働いた経験なし、ビザなし、1,500万円の学費の借金あり、身重の奥さんあり、健康保険切れる寸前、英語力微妙、という状況で、卒業と共にシリコンバレーに引っ越した。もちろん、先の見えない状態は誰だって恐ろしいもので、そのときは不安もあった。でも、納得できない人生を生きるつもりはないので、この決断を後悔したことはない。 つづく