アメリカでの就職の話 (3): レイオフ

日本人の感覚からするとわかりにくいが、シリコンバレーのベンチャーにとってレイオフを行うことは風邪を引くぐらい日常的なことであり、会社の財務状態が悪化すれば翌日ばっさりレイオフする。こういう前提なのでレイオフされた人は意外とけろっとしたものだが、僕の場合には色々と面倒な問題があった。例えば・・・

  • 滞在ビザがない:永住権の手続き中につき、まだ就労ビザ(H1-B)の状態。H1-Bでレイオフされると翌日からビザが無くなるので基本的にすぐ帰国しなければならない。
  • 飛行機に乗れない:新生児の息子はまだ免疫注射をできないので飛行機に乗せられない。
  • 健康保険がない:レイオフされると健康保険が切れる。
  • 次の仕事が全然なさそう:ベンチャーのほとんどがレイオフ中なので、採用している会社は急減してしまい、仕事先が圧倒的にない。しかも、景気回復の見込みは数年先。

特にビザの問題は深刻だった。レイオフが日常的であるベンチャーで働く以上、ビザで困らないように永住権の申請を急いでいたのだが、就職直後から永住権取得までの一瞬のスキに不況の直撃を受けるとはさすがに想定していなかった。

レイオフ発表後の会社へ

月曜に会社に着くと、レイオフになる仲間たちは、荷物をまとめ、CEOからレイオフの経緯について話を聞いて、残るメンバーにお礼のメールを書いてから、オフィスを去っていった。プロダクトマネジメントのバイスプレジデントに、「次、どうするの?」と聞いてみたら、「さあ、こうなるとは思っていなかったから、次のことは全然わからないね。んじゃまた!」と笑顔で答えて去った。

僕はCEOのRudyにこう言った。「会社にとって重要なのは資金。僕にとって重要なのは家族が不安なく住めるビザ。だからこうしよう。僕は就労ビザを維持できる最低賃金で今後も働く。仕事はあるんだから僕がいたほうが会社にとっても便利だろうし、資金繰りが回復したらフルタイムに戻すという選択肢もお互い持てる。」Rudyは息子が生まれたばかりの僕がビザを失うと困ることを知っていたので、こう言って条件を受け入れてくれた。「わかった。こういう先が見えない状態では、何も約束することはできない。でも、俺がクビにならない限り、1月末までは雇用できるようにがんばってみる。その先は、わからない。」

いつも強気なRudyも、さすがにこの日はすっかり元気がなかった。これまで苦労して作り上げたチームが去っていくのはCEOにとっても辛いことに違いなかった。きっとすごく怒った人もいただろう。僕が「全然気にすることないよ、タイミングが悪かっただけで、Rudyが悪かったわけじゃないのは良くわかっているから。」と言ったら、Rudyは「雇用にはすごく慎重だっただけに、こういう状態になったのはとても残念だ。こういう状況では自分のモラルを保つのが本当に大変だが、こういう時にこそ、経営者の手腕が試されるんだと思う。俺には全て正直に説明することぐらいしかできないが、できることはちゃんとやっていくよ。」と答えた。僕は「Rudyはチームにいつもすごく良くしてくれているよ。ここはとてもいい会社だし、今でも、このチームの一員になれてうれしく思ってる。」と答えた。Rudyは涙ぐんで、僕に握手をして、オフィスを離れた。

ビジネスメンバーの席が集まるオフィスエリアはすっかり静かでさびしくになってしまったので、僕はそれからほとんど毎日会社に出勤し続け、頼まれてもいないが仕事をしながら転職活動を始めた。

というわけで、形式的には完全レイオフではないものの、事実上はレイオフ状態。1月末まで雇用が持つのか、持たないのか、その先どうなるのかもわからない。100年に一度の不況などといわれるまっただ中で、スタート地点よりはるか後ろの再スタートとなった。うーん、それなりにピンチ。

でもまあ、所詮仕事ですから!

つづく

アメリカでの就職の話 (2): 金融危機

3日で就職活動が終了

シリコンバレーに引っ越した3日後に、アーリーステージのモバイルベンチャーから、マーケティングディレクターの内定をもらった。

引っ越した直後に、マーケティング副社長のChrisから「今何してんの~」とメールがきた。この会社はHBSの先輩経由で紹介された会社で、TrinityやTrueなどのトップベンチャーキャピタルやAdobe等に出資を受けていた。僕は「モバイル・マーケティング・日本」という、強みを活かした仕事をしようと思っていたので、年初から日本展開の相談に乗っていたのだが、それが功を奏した。条件面も悪くなかったし、マネジメントチームも経験豊富だし、Chrisも信頼できるし、すぐに永住権を申請してくれるという事だったので、そこに決めた。その2週間後には他にもVP Business Developmentで別の会社から内定をもらったが、そちらは辞退した。そもそも一ヶ月で健康保険が切れることもあって、7月中に決めねばならなかったし、面白そうな仕事だったので、7月31日にオファーにサインした。

なお、内定辞退したボストンの会社が勝手に出してくれていた就労ビザが転用できることが判明した(ビザの問題は複雑なので割愛するが、これはかなりラッキー)。内定を辞退し無職で卒業する羽目になった時は「最低の出来事だ」と落ち込んだが、振り返ってみると、あれは最高の出来事となった。

と、ここまでは調子が良かったのだが、問題はここからだ。就職してすぐに、金融危機がベンチャーおよびベンチャーキャピタルの業界に大打撃を与えることとなる。

金融危機がシリコンバレーを襲う

金融危機の影響が急激に深刻になってきた。大手ベンチャーキャピタルのセコイア・キャピタルが、「R.I.P.: Good Times (楽しい時代よ 安らかに眠れ)」というタイトルでプレゼンしたことが話題になった。ベンチャーが資金調達するのは当分無理なので、人を解雇せよと全投資先に通達したのだ。

その頃、僕が働き始めてばかりで、引越し作業も落ち着いて、少し仕事に慣れ始めたところだった。11月には息子が無事に誕生し、みなに祝ってもらっていた。

ところが、産休から会社にもどると、会社の財務状態はすっかり変わっていた。11月までは売上の調子がよく、大きな案件をどんどんもらっていたのだが、11月に入って、なんとほぼ全ての大手の取引先が不況を理由に契約中止を通告してきた。実際、全ての取引先は急遽大規模なレイオフを発表し、完全に投資凍結状態になっていた。

しかも、うちの会社は運悪く資金調達のタイミングだった。それまで資金調達の準備はとてもうまくいっており、11月頭には投資契約にサインするだけの状態だったのに、急に全てのベンチャーキャピタルが投資抑制モードに入ってしまったのだ。Adobeも数千人のレイオフを発表しており、投資どころではなかった。

そして、週末に誕生日を控えた12月5日の金曜日に、僕を雇った上司を含め、ビジネス側の人間(マーケティングやプロダクトマネジメント)ほぼ全員のレイオフを発表した。

人生ってわかんないなぁ・・・と、ぼんやり考えているうちに僕の誕生日は過ぎ去ったのでした・・・。

つづく

アメリカでの就職の話 (1): 内定辞退

長い前置き

ばたばたしていて更新が遅れてすみません。。。

今日はアメリカの就職活動の経緯について書いてみたいと思う。Chikaさんに「大変だった模様」と書いて頂いていたように、普通の人に比べたら苦労したような気もするが、のど元を過ぎると苦労など全部忘れてしまうタチなのであまり大変さが伝わらないかもしれない・・・。

長いので、数回に分けます。ご興味のある方だけ読んでいただければ。

えーと。実はそもそも、しょせん就職とか転職とかは仕事の話なので、人生のいろいろな苦労の中では別に大した苦労だとは思っていない。日々の食事が普通にできない金欠状態に陥るまでは、仕事における苦労など大したことはないと思う。もちろん、やりたい仕事が実現できるに越したことはないが、僕は家族が幸せで天気がよければ仕事がどういう状態でもけっこう幸せなのだ。「背水の陣」とか、「覚悟」とか、そういうなんだか怖い単語でディスカッションが盛り上がっているのを見るとすごいなあと思う。そういう話は、僕が成功した後、失敗することにより失うものが大きくなる日まで、関係ないと思う(笑)。

しかし、手を抜いているつもりはないし、努力していると思うので、やる気はあるつもり。確かに、無理そうなことばかりしていると日々つらいこともあるし、ほとんど失敗しかしないからそれはがっかりすることもあるけど、人生で本当に取り返しのつかない事なんてほとんどない思う。たとえ、アメリカで仕事がなくなって日本に帰るしか道がなかったとしても、夢を実現する道はまだ沢山あるんじゃないかと思う。だから、目の前にあるものに努力して、だめなら他の方法を考えれば、100点満点の人生じゃなくてもきっと十分幸せに生きていけると思う。

そういう姿勢なので、なんだかちょっといろいろ「温度差」があるかもしれません、という長い前置きのもと、本題に入ろうと思う。

無職でHBSを卒業

1年生のときは、サマーインターンではテクノロジーベンチャーで仕事がしたかったのだが、やり方も良くわからず失敗。ボストンキャリアフォーラムで見つけたカリフォルニアのヘッジファンドでインターンをしてみたが、性格的に合わずこれも失敗。なので、2年生になって、いちから就職活動することに。

どうしようかなーと思っていたら、たまたま知り合いの日本人の方が働いていたボストンのインターネットマーケティングのベンチャーから声がかかった。僕が渋谷でやっていたベンチャーの仕事にとても近く、面白そうなので面接を受けてみたら、内定が出ることになった。しかし、給料の交渉も終わり、ビザの申請も終わり、オファーにサインしようかと思っていた卒業直前の期末試験中の4月になって、どんでん返しが発生した。

そのベンチャーは数年前に日本最大のインターネットショッピングの会社に買収されていたが、特に日本からコントロールされることもなく、アメリカ人によって経営されていた。しかし、その日本の親会社の社長が、HBSの学生(=僕)が子会社で採用されたことを知り、いきなり僕を親会社へ引き抜こうとし始め、その後親会社と子会社でどろどろしたやりとりが始まった。かの有名な社長さんに「俺の下で働け」と言って貰ったのはありがたいが、僕は親会社で面接したわけではないので僕がフィットするのかわからないし、卒業直前の話としては急すぎるので、ということで断った。そうしたら、「俺の下で働かないなら内定取り消し」みたいな強引な話になってきた。本気だとは思わなかったが、なんだか僕の心の声が「面倒くさいのでやめておけ」というので、内定辞退を即決。奥さんは、「何も仕事がなかったら私の実家の田舎で畑をやれば食べ物には困らない。好きにしたら」といわれ、最終決定。ということで、前代未聞の、HBSを無職で卒業ということで、周りの日本人は呆れていた。というわけで、学生時代の就職活動も失敗。

その事件の数日後に試験が終わったので、スーツケースをまとめてシリコンバレーに一週間行ってみることに。テクノロジーベンチャーといったらシリコンバレーかなと思っただけ。その際にメールでChikaさんに「アプローチを相談させてください」とお願いしたところ、「リスクが超高い、まず無理」という返事を頂いたというのが、Chikaさんのブログの内容(笑)。ただ、僕は「まず無理」「前例がない」という言葉は耳にタコができるほど言われてきているので、「前例なら自分で作ればいいや」と解釈して気にせず。一週間行ってみて、色々な人に会って相談できるだけで、毎日がとても楽しかった。だから、とりあえずシリコンバレーに奥さんと一緒に引っ越すことにした。

アメリカの保険システムはひどく、妊娠していると個人での保険加入は断られる。なので、学校の保険が切れてしまう7月末までに就職先を決めようと思った。家族の健康を脅かしてまで仕事を探すなんて馬鹿げているので。

というわけで、就職先のあてなし、アメリカで働いた経験なし、ビザなし、1,500万円の学費の借金あり、身重の奥さんあり、健康保険切れる寸前、英語力微妙、という状況で、卒業と共にシリコンバレーに引っ越した。もちろん、先の見えない状態は誰だって恐ろしいもので、そのときは不安もあった。でも、納得できない人生を生きるつもりはないので、この決断を後悔したことはない。

つづく

Re: 米国での就職が目的の場合はHBSを出てもMBAは大変

最近更新を怠っているのですが、そういうことをすると、渡辺千賀さんのブログで突然紹介されるといった不意打ちを受けるので(笑)これからはがんばって更新していこうと思う次第です。

僕自身の自己紹介はこちらです。まだ日本語訳を作っていただいていないのですが。現在、Globespan Capital Partnersという米独立系ベンチャーキャピタルのディレクターとして、アメリカのベンチャーの経営支援を行っています。

Chikaさんには気を使って頂いて、「僕の就職活動で苦労したことは書きません」と書いて頂きましたが苦労していること自体はばっちりバラしてしまうのがナイス!

ChikaさんもMichiさんも仰るとおり、文系人間がアメリカでいきなり就職というのは、基本的にはかなり難しいと言えます。僕のところにもアドバイスの依頼がかなりやってきますが、Chikaさん同様、基本的には難しいよ、と伝えています。これは、ハーバードやスタンフォードのMBAを出ていても、です。そもそも、MBAを出て就職ということは最初からそれなりのマネジメントポジションで入る必要があり(私は最初のベンチャーではMarketing Director = マーケティング部長で入っています)、英語も完璧ではない人が入るというのは基本的に無理、というのが現状だと思います。僕は無理といわれても実行し、実現していますが、もちろんこれは苦労もあるわけです。

本ブログは、仕事のことについてはほとんど書いていないので就職活動についてもほとんど言及していません。これを機会に、そのあたりの苦労について、次のエントリーから振り返って行こうと思います。

もしご興味のある方はまたいらしてください。