今って平成何年?

アメリカに住んでいると、さらに今が平成何年なのかわからなくなる。今リサーチしている政府系の統計データはたいてい平成を使ってきやがるのでムカッとする。お願いだからかやめてほしい。

だいたい、昭和50年が、平成21年の何年前かすぐにわからないという時点で年度の単位として役目を果たしていない。明治1年と大正1年と昭和1年と平成1年で人口の折れ線グラフとか出されたら「増えてることしかわかんねーよ!」ってキレない?

昔は、「天皇の世代」こそが時代の単位だったわけだが、象徴天皇制になった今は「年」そのものが時代の単位。50年前が何年なのかわからない単位をメインで使うのは皇室内だけにしてほしい。

Do you speak English?

はい、極端な意見をいいまーす。

1. ラジオ英会話や英会話学校で英語がマスターできるというのは幻想

「わたくし、趣味で英語をたしなんでいます」とか、「毎日、英会話学校に行っています」みたいな人で、まともに英語を話せている人を一人も知らないが、日本で優雅に英会話学校に行き、NHKラジオ英会話を聞いていて英語ができるなんて甘い話は世の中に転がっていないのである。言語というのはそういうレベルの気合でマスターできないんじゃないの?

言語というのは勉強科目ではなく、脳の機能なのだ。言語を言語としてつかわない環境で脳が英語を言語として認識するわけなくないか?

2. 海外生活すれば英語ができるというのは幻想

最近、在米10ウン年、アメリカの会社で日本語ぜんぜん使ってきていません、という日本人の方と英語で話したが、文法は間違いまくりで日本人アクセント全
開である。言語というのは勉強するというより脳が勝手に取り込んでいくものなので脳の成長が終わる18歳すぎたらほとんど手遅れなのではないだろうか。誰のせいでもなく・・・。

かくいう僕も英語ではまだまだ苦労しており、最近は英単語帳とか開いちゃっているわけである。でも、やっぱりネイティブレベルの英語を30過ぎてマスターなんていうのはそもそも無理なのは知っているのだけどね。

3. TOEIC満点とれれば英語ができるというのは幻想

たしかに、日本で英語を勉強しても、TOEICの点はそこそこあがる。しかし。

「鈴木君、これからどこにいくんだい?」

「図書館に行こうと思ったけど、風邪をひいたからやめたよ」

問い: 鈴木君はこれからどこに行くでしょう?

 1.図書館

 2.風をさがしにいく

 3.どこにもいかない

こんな問題に全問正解できても、「実用に耐えるレベルの言語」とはいえない。なのでこんなレベルで満点とりましたみたいなのは、映画をみたら話の内容はだいたいわかったかも?ぐらいのもんであり、日本語同等に使えるレベルからははるか遠い。同様に、TOEICが満点というのと英語がネイティブレベルにできるというのは、きっと東京から箱根にいくのと、北極にいくぐらいに違う。

4. 日本で英語を教えている人が英語ができるというのは幻想

言語を勉強する一番いい方法は、僕たちが日本語を勉強したように自然に英語を勉強することだが、英語を話せない人が英語を教えている日本ではそれは難しい。日本にも英語をネイティブレベルで話せるという人はそれなりにいるのだが、まだまだ数が足りない。社会においてネイティブが希少なうちは、ネイティブに対する引き合いが強く、英語教師よりいい仕事がたくさんあるわけで、僕だったら英語教師などしないと思うんですけど・・・。そんな構造だと、「ある程度の英語しかできず間違いだらけの英語教師」+「観光気分・日本語を勉強する気なし・教えるスキルなしのガイジン」という悲しいタッグが教えることになるわけだ。

日本で英語教育をまともなレベルにするには、日本人で英語がネイティブという人の人数がCritical Mass(十分な人数)に達し、コモディティ(大衆商品)化する必要があると思う。そうしないと、ネイティブが教え、日常でネイティブと話す環境は生まれない。もう、日本じゃ無理なんだよね。

子供の英語教育

残念ながら日本の状況が変化するまでには途方もない時間がかかりそうなので、親としてはその間に中学3年、高校3年、大学4年で10年もかけて役に立たないものを子供に勉強させるぐらいなら、中学か高校で子供を海外に放り出すね。そしてこう言う。「国内で優雅に勉強して英語ができるようになるなんて甘い話は転がっていない!海外で、命がけで英語で英語以外の科目を学べ。終わったら英語なんて勉強しなくていいから」というだろう。18歳すぎたら海外に住んでも言語の習得スピードが落ちるので、それ以降なら「日本で生きていくのに英語の勉強など不要」と言うかも知れない。

まあそんな中、僕自身は英語を使う仕事をしているのでいまさらあがいているわけだが、子供には英語ごときで苦労はさせたくないと思ったのもあって、極論を言ってみた。

ストリートビュー雑感

大きなイノベーションというのは必ず反対が起こるのはつきもので、特に日本人の変化に対する拒絶というのは世界平均からするとすごい。日本の合意カルチャーでは「だめな理由」があるものはたいていつぶされるが、こうしていいものを安易につぶしてはならないと思う。

日本ではストリートビューが槍玉にあげられているような記事を見る。ある団体が、政府に働きかけて、中止を呼びかけようとしているとか、話を大きくしようとがんばっている。その人たちが言っていることは間違っていないとしても、こういうイノベーションの価値を考える上ではもう少し広い視野が必要だよね。

日本の報道というのは極端にネガティブな例ばかり取り上げて何でも大げさにする傾向があるが、僕の予想だと、3%の人はGoogle Streetviewの熱狂的ファンで、3%の人はGoogle Streetviewを嫌っており、残りの94%は「あ、けっこうコレ便利だよね」と思って時々使っているというのが実情だと思う。

Street Viewへのアクセスがどんどん増えており、利用者が喜んで使っている中、満足している合計97%の声は報道されない。あくまで、不満な3%が全体の意見かのような主張が報道されるが、こういうのは両方の意見をちゃんと聞かないといけない。日本ではポジティブな情報があまり流れないようになっているが、Street Viewのメリットはかなりある。例えば、

  • 日本は車椅子の人のようなごく一部の向けに社会を設計するのを嫌う国なので、車椅子で生活している人は、地図を見ただけではその道を通れるのかわからない。でも、行く前に道の状況をチェックできることで世界が広がる。
  • 今後、救急車や消防車が事前に道の状況や建物の状況を調べてから現地に行けることで、より多くの人命が救われる。
  • 風景や雰囲気が写真では伝わらず、観光客に来てもらえないような町や村がで町おこしをできる。
  • 遠方からアパートや家を探している人は効率的に町の雰囲気を知ることができ、「写りのやたら良い外観の写真と誇張された情報(駅前3分)」にだまされず、より気に入った環境で生活できる可能性を高めることができる。

こうした感動や、社会に貢献する可能性を踏まえると、イノベーションをつぶすのではなく、どうやって社会と共存させるのか、どうやって新しい価値を模索していくか、そういう前向きなところにも日本人は力を割いてほしいと思う。

Happiness Gallery

最近、なんか楽しいニュースが舞い込んでくることが多い。メールを勝手にこぴぺしちゃいます、ごめんね。名前を明かさないので許してください。

友達から結婚の報告とか、

超マイノリティな女性コンサルタント(である私)は、同じく世の中的にはマイノリティというか、「新卒でコンサルになったけど、自分のやりたい仕事をしたくて年収1/3に削ってベンチャー会社のサラリーマン」になった人物と結婚します。

→ナイス独自路線。おめでとう!

あとこれはとってもうれしい、再婚の報告とか、

2007年には離婚などをする結果となってしまい、ご心配をおかけしました。離婚はやはり痛い経験で、反省や後悔をするこ
とも多い、一人での生活を送っておりましたが、実は5月に友達の結婚式で知り合った人と、夏くらいからお付き合いを始めました。家族同士の交流もすでに始
まっていて、今年、再婚する予定です。古賀君、私いま幸せだよ。

→よかったなぁ~!うんうん。

会社の同僚から、MBA受験の出願が無事に終わったとか、

大学受験の件ですが、今年の出願がついに全部終わりました。(14校)。去年はどこからも面接の連絡が来ないで終わりましたが、今年は出願者全員に面接するKelloggとUNCにももうしこんだので、来週末、再来週末、東京で面接があったりします。

→お疲れ様!絶対合格するよー。

大学の後輩から、すごくいい就職先に決まったとか、

一昨年度は就職活動のご相談にのっていただきました、明治大学政治経済学部の○○です。

おかげさまで就職活動は無事終了し今年の4月から住友商事で働くことが決まりました。

→明治から住友商事ってすごいよ!おめでとう!

子供が生まれた!とか、

We are excited to announce the birth of our first son.  He was 9lb 6oz, and 22¼  inches long.  Both he and my wife are doing great, and are happy to be home.  Both of his sisters are very excited to have a little brother.

→Congrats! それにしてもでかい。

犬がかわいいとか、

会社、大変だよぉ。忙しい割にはちっとも儲からないしな。でもさ、うちの犬(クッキー)に聞いたんだが、「俺がドビンボーだろうが、いくら稼ごうが、関係ないよな?お前は俺といれば幸せだろ?」って聞いたら、いつもどおり喜んでた。でも、これって大事だよねぇ。

→家族(ペット含む)の包容力は無敵です。

実はカナダに親戚がいて、その人が僕に会いたいと言ってくれているとか、

(父からのメール) カナダ バンク-バ-に親戚がいます。貴君の名づけ親、山口喜久一郎の長男で若くしてカナダへ移住カナダの白人女性と結婚して二人のお嬢さんあり。

→お会いできるのを楽しみにしています!

ほかにも、周りにはすばらしいニュースがたーーーーくさんあります。人生の新しいステージに入る瞬間や、辛い時を過ごしていた人たちが希望を取り戻す瞬間は、とても美しく、感動的だと思う。我が家も、ちぇん太が今日はこれができるようになった、あれもできるようになった・・・というように、楽しい奇跡であふれています。

みんな、良いニュースがあったら、どんどん教えてね。周りの人の良いニュースでもいいし。僕のアタマの中の幸せギャラリーに展示する品をドシドシ募集しております。

006.JPG先週末にぶらりといった朝市にて。最近のシリコンバレーは暖かい日が多く、ぼちぼち20度ぐらいまで気温が上がっています。

鬱病による自殺が減りますように。 (長文)

永田議員が自殺で亡くなったということで、ご冥福をお祈りいたします。

このニュースにも驚いたけど、それより驚きなのはこのニュースに対する人々のコメント。

「あんなことをしたんだから死んで当然だ」

「人間として弱すぎる、だから挫折を知らない人は困る」

「死んで責任を取ることなんてなかったのに」

「なんで周りの人は止められなかったんだ」

みたいなのばっかり。

僕は医者ではないし、永田議員がなぜ死んだのかは、彼にしかわからない。でも、こういうコメントを見ると、鬱病による自殺に対する多くの人の理解のなさに残念に思う。もう少しだけ彼のことをわかってあげたら、こういう自殺を減らせるかもしれないと思い、長文になるが僕の見解を残しておこうと思う。

「あんなことをしたんだから死んで当然だ」

ちょっと待てと。そもそも、彼のした事は、そこまで批判するに値しない。理由その1。彼がしたことは、「実力以上のことにチャレンジしたが、失敗した」というだけで、大きく見れば特に若い時は誰にだってある「普通の失敗」だ。経営コンサルタントだった当時は、東京大学を優秀な成績で卒業したピカピカの部下が、ファクトに基づかない捏造感のあるプレゼンを作ってくることなどよくあることだったわけで、エリートだったら大失態をしないなどというのは幻想である。こういう失態を許し、学ばせることで、人を育てるのが組織の仕事だ。理由その2。最も悪いのは部下のレビューを怠った幹部だ。先述のように、失敗事例のある若い部下がファクトに基づかない議論をするリスクがあるのは当然で、こういうことが起こらないように組織的に準備するのが幹部の役割である。また、上司というのは責任が大きいから給料を部下よりもらっているわけであり、何か問題があったときは部下をかばい自分がまず責任を取るのが当然なのに、まず彼を罰しようという姿勢がおかしい。彼のせいで民主党執行部が責任を取らされたのはひどい、という意見があるが、本当に責任があるのだから当然である。理由その3。彼がやったことを批判するならば、彼に投票した人を批判するのが先であり、有権者はできないことをさせてしまった自分を恥じるべきであって、「あんなことをしたんだから死んで当然だ」という人は、投票者があんなことをさせたに等しいことを忘れてはいけない。

というわけで、彼がやった事の責任は大きく見れば組織と有権者にあるのだ。同じ組織と有権者が同じように行動すれば、同じメカニズムで同じような人が現れるのだから。

「人間として弱すぎる、だから挫折を知らない人は困る」

彼がアンラッキーだったのは、職業柄、失態が多くの人の目にさらされたということである。僕も、テレビで全国放映されたら穴から出られないような失態があると思うが、経営コンサルタントというのは機密情報の世界なので幸い表に出るようなことはなかった。でも自分の失敗を日本のみんなが知っているという状態で、みんなに批判され続けたら僕はどんなに追い詰められるだろう。永田議員が、受験、就職で挫折したことがないという理由で、「挫折を知らない人は困る」というのは筋違い。受験で失敗した辛さと、日本中に恥が知れ渡る辛さとを天秤にかけられるはずがない。挫折を知っていようと知っていまいと、逃げ場がなくなれば人は極限まで追い込まれるのだ。

多くの人が、逃げ場がないということの恐ろしさを知らないのではないかと思う。特に、日本人は失敗に対する寛容さがなく、連帯意識を重視する結果「正しかったらみんなで批判する」傾向がある。ここで、逃げ場を失わせる最も簡単な方法は、「周囲の人が失敗した人を正論で追い詰める」という事だ。まさに、「人間として弱すぎる、だから挫折を知らない人は困る」、という発言をする人が多いから、人は追い込まれて、死んでいくのだ。

人間というのは、逃げ場がないとストレスで鬱病になるように設計されており、鬱病が進行すると脳の形状が変化し機能も変化し前向きに考える機能を奪われ、ともすれば自殺したくなるように設計されている。あまり知られていないと思うが、これは本人の問題ではなくて誰でも例外なくそうなのだ。人間として弱すぎるなどという人は、人間の精神が強いという勘違いは捨て、周りの環境に恵まれているだけだと気づいたほうがいい。

「死んで責任を取ることなんてなかったのに」

おそらく、彼の遺書には、自責の念、家族に迷惑をかけた侘び、そして死んで社会にお詫びします、という3点が書かれているだろう。鬱病というのはそういう自責の念が容態を悪化させる病気であり、パターンが決まっている。しかし、本当の死の原因は、鬱病がもたらす完全な絶望だと思う。完全な絶望というのは、おそらく僕のような普通の人には(僕が鬱病にならない限り)永遠に想像できない地獄の領域だ。おそらく、ひとつ息をするのも死にたいほど苦しく、朝起きるたびに目覚めたことを絶望し、消えたいと切実に願うのだと思う。こんな状態では、生きていられるのが尊敬に値するレベルの辛さだと思う。

死んで責任を取ることはなかった、そんな事は問題ではない。もう生きていられる程の辛さではなくなったから死ぬしかなかったのだ。そしてこれは、誰でもなりえる恐ろしい鬱病という病気の「正常な症状のひとつ」なのだ。

「なんで周りの人は止められなかったんだ」

鬱病が進行してしまった人の自殺を食い止めるのがどれだけ難しいか、知っているのだろうか?元気付けて気の利いたことをちょっと言えば立ち直るとでも思っているのだろうか?あるいは、自殺しないように両手両足を壁にくくりつけ、舌をかまないように口にボールでもつっこんでおけばいつか治って自殺しなくなるとでも思っているのだろうか?そんなに簡単に対策できる病気だったら誰も鬱病で自殺したりはしない。プロの精神科医と家族が全力でサポートしても、そう簡単に解決しないから、恐ろしい病気なのだ。

それに、自殺が発生した場合には悪いけど死んだ本人よりも残された周りの人をサポートする必要がある。近しい人を失ったという絶望は、周囲の人の心を信じられないぐらい深く傷つけ、そのトラウマが完全に消えることは難しい。にもかかわらず、平然と「なんで止められなかったんだ」などと正論で追い討ちをかける人が多いのも残念。悲しみに打ちひしがれた家族に必要なのは馬鹿でもできる批判ではなく、「あなたはよく彼を支えました、あなた以上に彼を支えられる人はいませんでした」といって抱きしめてくれる人だ。

では、どうすればよかったのか

鬱病になるというのは、完全ではない社会においては、事故というか、ほとんど運によるものなので、こうすれば避けられる、といったものではない。しかし、鬱病は薬やその他の治療法を正しく併用することで治すことが可能(簡単ではないが)な病気であり、しかも早く治療することで治る確率を大きく向上できるのだ。どういうのが鬱病の症状か、といった一般的な事はどこでも調べられるが、僕からの意見は以下である。

もし、あなた自信が自分が過度のストレスを感じていると思ったら、そして特に体調に少しでも変化があったら、鬱病だなと思うよりはるか前に精神科に行き、必要な治療をし、できればカウンセラーを紹介してもらうことだ。カウンセラーというのは単なる相談相手ではなく、精神病の構造と治療法を良く知ったプロの人であり、ストレスマネジメントへのアドバイスをくれる。鬱病というものを知らないと、「ストレスがあるが我慢すればなんとかなる」と思って症状を悪化させ、気づくと回復が難しいほど進行してしまうが、「我慢すると進行する」という事実を知っておいてほしい。進行した場合は、「そうは言っても」という常識を捨てて全力で問題から逃げて、どうか、ゆっくり休んでほしい。

もし、あなたの周りに鬱病の人がいる場合は、こういうことに気をつけてほしい。

  • 自分の尺度で余計なアドバイスをしない。例えば「がんばれ」が禁句なのは有名だが、鬱病はがんばりすぎたひとの病気なので、これを言われると「お前はがんばっていない」と言われている気になる。応援しているつもりだろうが、マラソン中に両足を疲労骨折して立てない人に「ゴールはあと100キロ先だからがんばれ!」というのに等しい。しかし、説明されてもなぜそうなのか心にしみこまないなら、結局それ以外の言葉で追い込んでしまう。そういう心の繊細なメカニズムがそもそも理解できないなら、余計なことを一切言わないか、鬱病についてきっちり勉強してから何か言うべきだ。
  • 言葉通りに解釈して反論しない。苦しい状況の人はかなりムカつくことを言うし、理不尽な事をするし、批判したくなるようなことをするが、どんなことをしても許してあげなければならない、今だけは。本人も、きっと全てわかっていて、止められないのだから。別の言葉でいえば、鬱病の「症状」と本来の「人格」を混同しない。「本来の彼だったらこんな事は言わないが、鬱病に言わされている」とちゃんと認識しないと、「症状」ではなく「人格」に反論することになるのでよりダメージを深めてしまう。
  • 正論を言わず、特別扱いしなければならない。これは特に頭がいい正論が得意な人には難しいかもしれないが、本当に辛い人に、「そんなこと言ったって人生は平等なんだから、お前が強くなってしっかりしろ」というのは間違いだ。たとえば、上司との関係に苦しんでいる人に「社会人なんだからしっかりしろ」といっていいのは、ストレスが限界を超えていない場合だけであって、超えたときは「会社なんていいから、2~3ヶ月、ゆっくり家で休みなさい。他の事は何も考えなくていいから。お金なら、貯金があるからそれを使っていいから。キャリアの成功なんてなくても、あなたさえいればいい」と、言わなければならない。傷ついた人には、回復する十分な時間が必要であり、それまではやさしく、そして全力で守ってあげるのが周りにいる人の役目だ。こういう事情をわからない家族(たとえば無駄に厳しい父親など)が家族で影響が強い場合は鬱病では要注意で、危ない人をできるだけ近づけないように工夫しなければならない。

というのを踏まえたうえで、もし相談を持ちかけられたらどうするか。一般論はわからないし、正しいかどうかも知らないが、ぼくはこうしている。

  • 問題を理解する。どういう風にコミュニケーションすべきかわからないならば、まず話をずーっと聞こう。まず、自己は捨て、話を聞くことに集中する。心の壁の向こうで出られなくなっている本当の姿が見えてくるまで、暗闇の中で路頭に迷った瞬間を感じるまで、心の痛みが伝わってくるまで、相手の心をつかむ感触がある瞬間まで、とにかく聞く。言語表現はあまり頼りにならないので聞かず、なぜそういいたい気持ちなのか、を聞く。自己を捨てず「でもさ」とか意見したり、言語にとらわれたりすると、心が穴に引っ込んで出てこなくなるので注意する。本人が問題だと認識していることが本当の問題かどうかはわからないし、言語表現に頼ると心のメカニズムがわからなくなるので、相手の思考回路をそのまま自分にコピーして、ある程度相手の立場で問題を見る必要があるからだ。ただ、自分の心の形を相手の心の形に合わせるとけっこうこっちもしんどくなってくるので、相手の主観に合わせながら、自分自身が闇に引き込まれないように客観的でいる工夫が必要だ。なので、「相手の心」と「自分の心」をごちゃまぜにせず、アタマの中にはっきり認識し完全に関係ない二つの精神として共存させるようにし、自分にはダメージがないようにがんばっている。でも難しいね、これ。ところで、こういうことって文字にするとすごくキモいかも・・・ごめんね。
  • 失った自信を取り戻させる。(自信がないと、前向きに考える心の体力が産まれない)
    • まず、大抵の場合、自分がどんなに素晴らしい人間なのかを思い出させる必要がある。例えば、本人の素敵なところを大量に指摘し続け、「自分には価値がない」という勘違いがいかに馬鹿げているかを伝える。例えば、「あなたにはいい友達がたくさんいますね。なぜでしょう?あなたは自分がダメだといいますが、そんなダメな人を大切にしているあなたの友達は人を見る能力が欠如しているのですか?彼らに限ってそんなことはないとすると、あなたに魅力があるから、大切にしているのだと思いませんか?あなたが自分が価値がないというのは、間接的に友達をバカだといっているようなものですが、それがあなたの結論ですか?」みたいな形でポジティブに追い込んでいった。「自分に価値がないというのは極端かもしれない」とうすうす気づかせるまでネガティブな思考とは戦わなければならない。本人を否定することなく、欝の悪魔がもたらす理不尽・ネガティブな結論を徹底的に叩き潰す。
    • 次に、みんなに必要とされているという現実を思い出させる必要がある。誰だって得意なことがたくさんあるはずなので、欝状態だからと遠慮せず、ぜひお願いするようにしていた(もちろんプレッシャーになるようなことはやめたほうがいいが)。例えば、料理が上手な友達には素直にお料理を作ってとお願いし、時々みんなで遊びに行ってお料理を作ってもらって、いっぱい感謝を伝えるように
      していた。「みんなにはあなたが必要」と心から伝わるように。「自分には生きる価値もないし、死んでも誰も悲しまない」と思いいざ死のうと思った瞬間に「そういえば、みんなが自分を必要としている。それに、また料理を作ると約束してしまった・・・」と思い出すように。こんな些細ことで自殺が食い止められるわけがないと思うかもしれないけど必要とされているということは希望なのだと思う。ある日、僕がいつもどおり友達をつれてご飯を作ってもらいに行ったとき、普段は元気に料理していた彼女が、来てくれてありがとうと言って料理中に座り込んで泣き出したことがあった。僕たちは気にせずに笑いながら「何ないてんの?バッカじゃないの?それより料理まだ?」ぐらいの対応をしていたが、彼女はぐしゃぐしゃになりながら、笑い泣きで料理していた。今思うと、必要とされる事が想像以上に心の支えになっていたのではないだろうか。
  • 逃げ道を用意する。先ほども書いたように、鬱病の大きな原因は逃げ道がないと本人が絶望していることだ。そして、欝の影響で思考回路が閉鎖的になってくるので、実際に本人では逃げ道を作れない事が多い。もし問題がわかっているのであれば、回復するまでの間徹底的に逃げられる方法を提供する必要がある。問題が会社ならすぐ辞めさせてあげよう。問題が家族ならすぐに連絡先を変えて家族の目の届かないところに逃げ出そう。問題が過去の経験なら、それにまつわる物を思い切って全て捨て、それにまつわる人を全て遮断しよう。問題があなたなら、去ろう。問題が日本社会なら日本から逃げ出そう。「そんなこと言ったって、現実的には・・・」と言いたい気持ちもわかるが、状況によっては手段を選んではいけない。それに、もし結局この選択肢を選ばなかったとしても、「いざとなったら逃げられる状態である」ということが生きる希望につながることをわかってほしい。この逃げ道の準備については、やはり身近な人がやらないと難しく、本人に直接提案しても「無理」というだけで逆効果になるかもしれない。でも友人や同僚でも、協力しあうことで環境づくりに貢献することはできると思う。

モーニング娘。(芸能界)に学ぶ

とはいっても、テレビに出ている人が日本社会の批判にさらされる、というケースはあまり類を見ないので、今回のことで他の事を参考にするのは難しい。

でも、ひとつ、参考になるかもしれない例が思いついた。僕は芸能界にまったくといっていいほど興味がないので、モーニング娘。のメンバーをまったく知らないのだが、一人だけ名前を覚えている。芸能界から追放された、加護亜依さんである。なんでこの人だけ知っているかというと、タバコごとき(だって高校でも多くの同級生が吸っていたでしょ?)で日本社会から批判されて芸能界を追放されたというニュースを見て、「このパターンは、マスコミと、マスコミの記事を見て賛同する日本社会に追い詰められて死ぬな」と思っていたからだ。

でも、驚くことに彼女は死ななかった(やはり自殺未遂はしたようだが)。となると、不思議なのは死ぬと思っていた彼女がどうしてまだ生きているかだ。

ちょっとウェブで調べてみると、彼女がラッキーだったのは、特別扱いしてくれる人がいたことと、逃げ道があったことのようだ。どうも、石本さんとかいうおじさん(恋人)がずっと一緒にいたようで、かつ誰かの手配でニューヨークに留学していたらしい。この人がどんな人かは全然しらないが、死ぬと思っていた彼女が今も生きているということは、理解がある懐の深い人なんではないかと思うし、彼も本当に辛い中がんばって彼女を前向きにできたというだけでかなりの尊敬に値する。彼がいなければ加護さんは本当に死んでいたんじゃないだろうか。それから、(おそらくその彼のおかげで)本当にアメリカに逃げ出せたというのも命を救った。日本社会から批判されているという絶望的な状況において、本当に日本から出て行き、マスコミの目を背けることができたことが、精神を健全な状態に引き戻す大きなチャンスをつかんだのだ。こうしたことは誰でもできることではないので加護さんは運がよかったのだと思うし、環境に恵まれていた。もちろん、このへんは推測にしか過ぎないけれど。

(ちなみに、リストカットを告白したことについて和田アキ子さんが「芸能人としてプロフェッショナリズムに欠ける」と批判していたが、こういう正論でエールを送るというのは勘違いである。いまだに立ち直っていない人が多少へんなことを言うのは当然であり、そういう人を正論で公然と批判するから人が追い込まれるのだ。本当に心配しているなら、こういうアドバイスは、人の耳に入らないところで、そっとやさしくしてあげなければならない。)

ともかく、こういうことをできる恵まれた環境があったら、永田議員も死なずに済んだのかもしれない。特に、死ぬ前に奥さんと離婚し、むしろ特別扱いしてくれる人がどんどんいなくなった事は本当に心を痛めたのだと思う。(でも当然、問題はもっと大きなものであり、「助けるチャンスがあったのに助けられなかったのはお前のせいだ」と奥さんを責めてはいけない。奥さんも絶望と戦っていたのであり、その痛みをわからない人に偉そうなことを言う資格はない。また、家族の自殺が残す心の傷は重い。もうテレビも見られないかもしれないし、政治の話をしただけで死にたくなるかもしれない。これからは、遺族を守ってあげなければならない。)

ただ、同じようなメカニズムで、僕たちは周りの人の命を救えるかもしれない、ということだけは言えると思う。

とまあ、こんなことを長々と書いたのは、僕も助けたかった友人を自殺で失ったから。その人の死を無駄にしないためにも、今後そうやって死に至る人が減るには何が必要と僕が思うかを、せめて他の人にも知っておいてもらうことで、少しでも自殺が減ることを望んでいます。

追伸

この文章は鬱の人向けに書いているわけではないのですが、もし、万が一、あなたが死にたいと思っていてここに来たなら、これだけは信じて欲しいと思います。

病気の症状で忘れているかもしれませんがあなたはあなたが思うよりはるかに素敵な人です。僕には絶対の自信があります。

あなたが辛いのは知っています。でも、それはあなたが運が悪かっただけで、あなたは全然悪くありません。

なのに、あなたが死ななければならないなんて無意味な事は、僕には、絶対に、何があっても、許せないんです。あなたにはいろんな複雑な事情とか理由とかあるかも知れませんが、とにかく僕はそんな理不尽な話は絶対に許さない。あなたが死にたい理由はわかりますが、あなたが死んでいい理由はあなたが1万回説明したって僕には微塵もわからない。

だから、勝手かもしれませんが、僕はとにかくあなたに死なないで欲しいのです。もうちょっとだけでもいいから待って欲しいのです。あなたにはすばらしい価値があるという現実を思い出して欲しいのです。

お願いだから、死なないで下さい。

関連した日記:  君が生きていたということ

あけましておめでとうございます

謹賀新年ッ!

このブログを読んでくださっている皆さんはほとんど日本におられますが、みなさんお元気でしょうか?去年の夏に仕事でちょっと帰国したぐらいで、みなさんに直接ご挨拶できなくて非常に申し訳ないです。みなさんの年越しはどんな感じだったのでしょう。

2008年の新年はモロッコのサハラ砂漠で迎え、2007年はボストンの海岸で花火を見ながら年を明かしたのですが、2009年は子供がいるから外に出られないということで、フツーにカリフォルニアの家でのんびり年を迎えました(日本ではないという時点でそんなにフツーではなかったが)。しかし、せめて日本っぽい年越しにしよう!ということに決定。

ということで、「ダウンタウンの笑ってはいけない新聞社」(日本の年越し番組)をYoutubeで見て爆笑しながら、年越しそばを食べた(2005年には自分で作ったところ謎のマカロニが完成したという反省から、買って済ませた)。でも、もち米を買ってきておもちをたくさん作る。もち、うまい・・・。なお、年越しの瞬間は、新しい家族を迎えた記念に家族3人で手を取り合って「イェ~イ」と無意味に叫びハイ・ファイブしながら迎えました。除夜の鐘をつきにいこうかと思ったが、さすがにここはアメリカなのであきらめた。

近況

息子も元気にすくすく育っています。もとから子供好きなのですが、ぶっちゃけ生まれた瞬間は、「ハァ、これがうちの子供ネェ」という感じで実感がわかなかったのですが、毎日オムツをかえて、お風呂に入れて、だっこしてと、長い時間を一緒にすごしていると、うーん!!!!不思議なほどにジワジワとかわいくなってきます。ちなみに、もう息子のパスポートが来たのですが、初めてアメリカのパスポートを手にして、「おぉ・・・うちの息子がアメ人!?」と半端じゃない違和感を感じました。(日本のパスポートはまだしばらくできない・・・)

奥さんは息子が生まれてから、全てにおいてハイパフォーマンスを実現しています。時間の管理もうまくなり、家事も上手にこなし、子供の世話を文句ひとつ言わずにがんばっており、ママはすごいなあと思うばかりです。

僕のほうは、世界不況の影響でありえないぐらいの逆境におかれたシリコンバレーにおいて、笑えるぐらいにエキサイティングな毎日を過ごしています。個人的はいろいろとやっているのですが、大体面白い事はブログに書けないのが悲しいところ・・・。

2009年について

2008年は無事にハーバードを卒業し、シリコンバレーに引越してすばらしい人たちとたくさん出会い、モバイルベンチャーで楽しい仕事をできるようになり、かわいい子供も生まれて、楽しいことがたくさんあったすばらしい年でした。その裏では色々なリスク(例:卒業直前に内定を断り職がなくなった・・・他、大人の事情で書けない事もたくさん)を取ったおかげで、非常に心労も多い年でしたが、支えていただける仲間やアドバイスをいただける先輩方や知人の皆様、そして家族のおかげで、元気に2009年を迎えることができたと思います。ありがとうございました。

一方、今、とても仲がよかった同級生たちは、世界に散って、いろいろなところで活躍して世界の経済を支えようとしているわけで、みんなの近況報告を聞くたびに気が引き締まります。今年も波乱の年になりそうな予感がしております。僕も今年は気合を入れてさらなるバカっぷりを発揮していこうと思いますので、よろしくお願いします!

平成二十一年 元旦