僕は、日本のことが大好き。日本のために何かしたいと思うから、仕事もプライベートもできるだけ日本に関することに時間を割くようにしているつもり。
でも、日本と関係ない仕事をすることもある。それも、とっても楽しい。
ただ、人によっては、「日本人なんだから、日本にいて、日本向けの仕事をするのが最低・当然の義務だ」と思うひともいるようだ。日本と関係ない仕事をするなんて、日本人として許されん!と言うわけです。
そんな人が多いものだから、僕のところに「こんなことがやりたいのですが、日本にあまり関係ない仕事なので、日本人として諦めるべきでしょうか・・・」なんてキャリア相談がきたりする。これは深刻な事態だ!
僕は、「日本人だから日本に貢献しなければならない」とは全く思わない。日本に貢献しようと、日本以外に貢献しようと、どっちでもいい、と思う。だから、そうアドバイスする。
そんなわけで、今回は、なぜ「どっちでもいいか」・・・つまり、「なぜ日本が常に優先されるべきだと思わないか」を説明したいと思います。
では、おもいつくまま、バラバラと、極論を言いますのでよろしくお願いします・・・(笑)
前提: 物理的に日本にいる=日本に貢献、ではないのでよろしく
まず、そもそもの日本に貢献するというときに、物理的にどこにいるかは関係ないと思いますので最初にはっきり言っておきます。
海外に住んでいる人がスピーチとかすると、「なぜあなたは日本にいて日本に貢献しないんですか」という質問がでるのを見る。僕から見ると、そういう質問をうける人は大抵日本にいないだけで日本に貢献している。反対に、質問をする人が何かしているかというと、それは「他人事」であることが多い。
日本に物理的にいれば、海外で日本のためにがんばっている人よりも、無条件に日本をよりよくできているということ?だとすれば、どのように?税金を払っているから?でも赤字国債が大量発行されている以上、ほとんどの人は税金を払うより税金をたくさん使っているのだから、税金的にはむしろ日本にいないほうが日本に貢献しているかもしれない。税金を食いつぶしていながら、外貨を稼いで日本で消費している人より貢献していると思われても困る。日本のGDPを増やすことも、海外からでも余裕でできるし。
日本にいさえすれば貢献している、というところで思考停止していたら、何も変えられないのではないだろうか。
とにかく日本人さえ助かればいい=単なるエゴでは?
僕は、日本人だから日本に貢献しなければ許されない、という考え方は、日本人のエゴだと思う。
恵まれた日本に住みながら、「日本は苦しいんだから、お前は日本に貢献しろ!」って?そんなの、派遣村で「オレ家がないんだから食べ物出せよ!」とキレている人と同じで、自分のために何かしない人が気に入らないだけではないの?
そういう貪欲な人たちは、何をやったって満足させることはできない。そういう人が押し付けてくる「道義」という呪いのために生きたって、使い捨てられるだけだろう。
困っているのは日本人だけではない。幸せになりたいのは日本人だけではない。日本人が神に選ばれた民なのであればわかるが、そうでないなら、とても恵まれた国に生まれた日本人が、どんなときでも無条件に優先されなければならないのだろうか?アフリカで飢餓、疫病、エイズなどに苦しむ子供のために日本人が心血そそいでがんばってはいけないのだろうか?
日本を愛しているから日本のために何かしたいと思うのは当然だ。しかし、人種や肌の色で人間の待遇を変えるのを、「当然の常識だ」といって人に押し付けていいとは思わない。それは、単なる差別ではないのか。
そもそもね、自分さえよければいい、家族さえよければいい、生まれた地域さえよければいい、自分の国さえよければいい、人類さえよければいい・・・そんな人ばっかりだったら、世界なんてすぐ滅びちゃうよ(笑)
日本に関わる仕事をしないことだって日本に貢献している
世界のためにがんばっている、日本では有名ではない日本人がいる。彼らは、日本を尊敬される国にしている。
日本人が彼らの活躍に興味がないという理由だけで、そういう人に対して、尊敬のまなざしを持ってはいけないのだろうか?
そういう人が増えてこそ、日本は尊敬される、リーダーシップのある国になるのではないだろうか?
日本人はすでに海外の貢献で生活している
今日あなたが食べた物、日本で作られてます?あるいは、日本人が考えた料理ですか?
この文章を見ているということは、あなたはパソコンや携帯を使っているということですが、それ、誰が設計し、製造したのですか?
僕たちが日々消費・利用しているものが、どこから来たのかも、実はよくわからない。それぐらい、僕らは世界の皆さんにお世話になって、そのおかげで豊かな生活をしているのです。そもそも資源がない国なのだから、海外に貢献しないで豊かに生きられるわけがない。
結局、すでにお互い貢献しているのであって、どっちに貢献とか目くじら立てて語るほどではない。
世界に羽ばたく才能を捨てる必要があるの?
例えば、あなたに世界で多くの命を救える力があったとしても、「日本人だから」という理由だけで、なぜあなたのすばらしい力をゴミ箱に捨て、世界に貢献せずに死ぬ必要があるのだろうか?それぐらいなら、世界のために才能を発揮して、日本のすごさを世界に伝えたほうがよっぽど日本のためなのではないか?
現実を言うと、本当に優秀な人は、たった一つの国のレベルではなく、世界に求められてしまうんだよね。
日本人であるというだけで出せる価値だってある
先進国では使い道のないような技術が、途上国では命を救ったりする。先進国の人は途上国の人が困っていることを知らないし、途上国の人は先進国にそんな技術があることも知らない。そして命が失われ、今日も世界は回っている。
僕たち日本人の知っていることは、僕たちが興味さえ持てば、他の国でとても役に立つかもしれない。人任せにしていたら、世界は変わらない。
日本人が出せる価値によって世界をより良く変えていき、充実感を感じることは、間違っているのだろうか?
「海外の人のハートの動きを感じられない」人の価値観にあわせるべきなのか
国境の向こうで起こっている喜びや悲しみに関心を持てば、「日本に貢献しなければ裏切り者」だなんて意見はでてこない。たとえば、世界中にすばらしい友達ができたら、彼らのために何かしたいと思ってしまうだろう。
日本人として日本を心配しなければならないのは当然だが、地球人として地球人を心配することだって、とっても自然。
僕の中では、グローバルというのは、ハートの問題だ。他の国の人たちの喜怒哀楽に同調してハートが動く人が、グローバルな人間なのだ。その感覚は、そのハートを持っていないとわからない。そのハートに従って生きることの、何がいけないのだろう?どうして、それが分からない人の価値観に合わせて生きなければいけないの?
海外に逃げただけ?そんなに甘くはない
海外に出たくても出られない人が、海外に出た人に、「ずるい。お前は逃げた、お前は日本に対して無責任だ」と批判したくなる気持ちはわかる。
でもね、はっきり言うけど、海外脱出なんてそんな嫉妬するほどロクなもんじゃないよ。日本にいる人にはわからない、惨めな気持ちを味わいながら、歯を食いしばらなければならないことが、たくさんあるのだから。「逃げた逃げた」と言うけど、じゃあ海外に逃げてみなよ、きっと日本に逃げ帰ることになるから。家族や友達と離れて、生活環境が違う海外で生活するというのは、大変なことなのだ。ちょっと子供の世話を実家に頼みたいなんて些細なことですら許されない世界なのだ。
そんな苦しい状況で、信念を持ち、日本人の看板を背負って戦っている人たちを、なぜ快適な日本にいながら無条件に批判できるのだろう。
日本以外に貢献する=愛国心がない?それもそんなに単純ではない
僕は、愛国心と、世界への貢献は、同時成立すると思っている。
そもそも、世界のために何かしている日本人が、日本を愛していないなんてことがなぜ言えるの?故郷を離れたから、故郷への愛がなくなるなんてほど、人間は単純ではないよ。たとえ国籍を変えたって、故郷はいつまでも愛する故郷だと思う。
海外にいる日本人が愛国心がないと思うなら、一般的には逆である。海外にいると、自分が日本人であるという現実を毎日突きつけられる。海外に日本のすごさを伝え、時には擁護しながら生きるのが日常となる。だから、むしろ日本への愛をはっきりと認識するようになるのだ。「日本人である」というのは、相対的概念であるからこそ、日本を出たことでそのすばらしさを認識するのだ。
僕が知っている人で、日本のことを心から心配し、本気でアツく語る人は、ほとんどが物理的に日本に住んでいない人である。一方で、日本にだって、日本に住んでいるだけで、日本のことに文句ばかり言って、心では日本を捨てている人がごまんといる。
本当に大事なのは国境や書類上の国籍ではない。大事なのは、日本人であるというアイデンティティや誇りだ。
国境などという細かい単位で物事を考えるのはスケールが小さすぎるのでは
国境なんて誰かがひいたあいまいな線で、そこに意味などない。なぜそんなにこだわらなければならないのだろうか。
なぜ生まれ育った家、村、町、区、都道府県を移動して貢献することが許され、国境を越えると裏切り者なの?国境の向こうで悲しんでいる人がいたら、その誰かが決めた線の都合で、助けてはいけないの?住民票を切り替えるのは裏切り者ではないけど、国籍を書類上切り替えるのは裏切り者なの?なぜ?飛行機や船が発明されたのが遅いから?国境を変えられないから?あなたが国境に縛られ、依存しているから?
僕たちの人生にとって大事なのは、「何をしようとしているか」だけなのではないの?それが国という誰かが決めた線によって変わるのであれば、所詮はその程度のものなのではないの?
全ては、信念の問題である
家族も、友達も、日本人も、日本以外に住む人も、心から大切にすればいい。そして、その中で、自分がやりたい、やるべき、できることを見つけて、信じたもののために生きる。それ以外は、ノイズだ。
僕たちが何を信じるかは、個人の信念の問題だ。他人がとやかく言って、押し付けるものではない。何をする事で、どんな生きた意味を世界に残して、死にたいか。その答えが、自分を形作るのだ。
日本に貢献したくて、できるならそうすればいい。日本以外に貢献したくて、できるならそうすればいい。日本は世界に含まれているのだから、両方できるのもすばらしい。自分が死ぬときに「意味ある人生だった」と思えることをやればいい。
日本に生まれたというのは財産であって、制約ではない。
何をやったって、批判する人はいる。そういうタイプの人には、「あなたが信じていることがあって、それを証明したいのであれば、私を批判するのではなく、あなた自身が立ち上がって何かをするべきです」と言えばいい。
僕たちは、素直に、自分が信じた道を行けばいいと思う。それだけが、人生で大事な事だ。それには強さが必要なだけだ。