君が生きていたということ
このあいだの夏に日本に帰って小学校時代からの親友の結婚式に出たのだが、昨日そのときの写真が届いた。いい写真だった。披露宴は基本的に家族のみで行われたが、新郎側の友人としては僕だけ参加させて頂いた。あと、先日のうつ病に関する日記へのアクセスが増え、数千人に読んでもらったようだ。
鬱病の話と、結婚の話はつながっているから、最近うーんと感慨深くなります。てなわけで、今回はそのときのお話どす。
話は、2004年までさかのぼる。
2004年の夏、僕は、MBA受験勉強のために、3ヶ月休職を取った。毎日タクシー帰りが当然であるコンサルティング会社の忙しさの中で勉強するのはとても難しかったからだ。
休職を取ってから、親友の奥さんからよく電話がくるようになっていた。二人は新婚ほやほやなのだが、結婚してから奥さんの神経痛とうつ症状が悪化し、ほとんど家も出られず、食事もできず、かわいそうにどんどん細くなっていた。詳細は省くが、とにかく幸せな新婚生活とはかけ離れた、悲惨な状況に見えた。
彼女は自分の命を守るために、限界の中で必死に戦っていた。
彼女には、親友が仕事でいない朝から夕方までの孤独がとても不安だったようで、僕が休職して働いていないという事を知ってから、毎日のように僕に電話をし、いろいろな相談を持ちかけてきていた。僕はいつも、うんうんと聞いていただけだった。
彼女の神経痛はひどく、毎日のように痛みで親友の名前を叫びながらのた打ち回っていた。神経痛というのは実際に体のどこかが悪いというよりも神経の問題なので治療が難しいようだった。あまりにひどい状態になると救急車になるのだが、救急車で運ばれると誰かが迎えにいかなければならないので、基本的に僕が一緒に救急車にのるようにしていた。
彼女の発作が近くなると、彼女はお願いだから誰かにそばにいて欲しいといって僕を呼び出すようになっていた。僕も、親友の精神的負担を軽くしたかったし、彼女が本当に限界の中で戦っていたのを知っていたので、呼ばれれば親友の家に行き、苦しむ彼女の隣で、どうせ集中もできないのに、彼女の気休めのために勉強しているふりを続けていた。
言い訳っぽいが、毎日のようにこういう状態で勉強に集中するのはとても難しく、受験勉強はあまり進まなかった。彼女の命が危険なのは知っていたので、僕にはどうしようもなかった。結果が出ることもなく、休職は終わり、その年はほとんど願書も出さずに終わってしまった。受験は失敗し、僕は仕事に戻った。がっかりした。そして、いつもどおりの仕事の日々に戻った。
翌年、2005年の秋、僕は再び休職を取り、今度こそはと勉強をがんばった。彼女の調子もある程度落ち着いたようだということもあるし、今回が最後だと思っていたのもあって、僕は休職している事実は彼女に告げぬままに受験に集中した。
年末年始はMBAの願書の締め切りがいっせいにやってくる。最重要となる小論文作成の山場なので、ものすごい集中力が必要な作業が続いたが、お正月も休まず出願作業を続け、1月頭には、予定通りの学校に出願を完了することができた。ここ何年も週末もなく受験勉強と出願準備をしてきたので、無事に全ての出願が終わり、ついに自分の時間というものを持てる日が来たと思って、僕は本当に嬉しかった。全ての出願が終わって一週間後、有頂天の僕のところに親友から電話が来た。
彼女が自殺したと。
今まで弱音ひとつはかなかった親友もそのときばかりは泣き崩れた。「ねえ、どうすればいいの?もう、あいつは帰ってこないんだよ?」と問いかけかれた僕は、オフィスで電話をもって呆然と立ち尽くすだけで、気の利いたことのひとつも出てこなかった。電話の向こうで「どうしたらいいのか」と何度も聞いていた気がするが、もう何を言っているのかもわからなかった。
携帯には、つい先日、30歳の誕生日に彼女がくれたメールが残ってる。
「はっぴばぁすでい!!最近ご無沙汰だけど元気?私思うに30代は、これからの生き様を問われると思う…。大切に日々を過ごしてね♪」
時が止まっている中、葬儀の準備だけは耐えられないような速度で進んだ。
通夜で美しく化粧された彼女の顔を見てはじめて、ああ、もう帰ってこないんだね、と実感したら涙が止まらなかった。僕がもしMBAの受験などせずに、もっと話を聞いていあげていたら。せめて、休職していることを隠すなんてひどいことをしなければ、君を救えたのではないかと。
でも今となっては、楽になったね、ゆっくり休んで欲しいと、言うしかなかった。
君のいなくなった世界が始まり、当たり前のような毎日が繰り返されるようになった。
僕は間違っていたのだろうか?
どうすればよかったのだろうか?
自分に聞いてみるが、答えはなかったし、ほら穴に向かって叫ぶように、闇に吸い込まれていくみたい。きっと答えなど誰も永遠にくれないんだという気がするだけだった。
結局、君が生きていたということは、何だったのだろうと思うよ。
でも、シンプルに考えると、君とは、君が生まれた世界と、君が生まれなかった世界の差なのだろうと思うようになった。あたりまえといえば、あたりまえなのだろうけど。
そう考えると、僕にできる唯一のことは、その差を大切にすること。例えば、僕が岐路に立ったとき、「君なら何というか」を心のどこかで影響させつづけることで、君が生きていたことによる「差」を大事にしていこうと思う。
その差のひとつが、君が教えてくれた鬱病のつらさや鬱病に関する考え方。こういうことに関して僕がコメントすることで「救われた」というコメントを書いてくれる人がいるのは君の命の重みだと思う。
もうひとつの差は、君がいつも願っていたように、僕の親友が幸せになるようにすること。
アメリカに行ってしまった僕にはあまり彼のためにできることがないんだが、彼は僕の大学の同級生とひそかに付き合い始めた。僕の地元では、僕の小学校、中学校、高校、大学の友達が一緒に遊んでいるのでそれがきっかけだった。絶望に打ちひしがれた親友を必死にケアするその女の子は、皮肉にも亡くなった奥さんと同じ名前だった。僕がその子に、「もしあいつが単に君に逃げているだけだとしたら、君はどうするんだい?」と聞いたら、「私はこのまま捨てられてもいいから、助けてあげたい」と言った。しかし、なくなった奥さんや新しい彼女の両方と昔から仲がよかった小・中・高の地元の友達は二人の交際に大きく心を痛めた。前の奥さんを失って時間が経っていないのに交際するなんて軽率だとか、自殺した前の奥さんと同じ名前の人と交際だなんてかわいそうすぎるとか、色々いって大きくもめた。そんな中、つらいことがたくさんあるだろうに支えあう二人は、今年の夏に結婚することになった。
結局昔から慣れ親しんだ友人たちは、誰も彼の結婚式には出ないことになったが、僕は、あいつの幸せをいつも願っていた前の奥さんだったら、100%「祝ってきてあげて」と僕に命令するのがわかりきっていたので、迷わずボストンから出ることにした。それが、「差」だと思うから。
小さな、よい結婚式だった。
人間などどうせみんな死ぬし、生きる価値なんて何があるのか、といったらそれまでだけど、人生の価値が人が生まれた世界と生まれなかった世界の差だと思うと、人はいろいろなところで大きな差を生み出して生きているのに気づく。
僕という存在ひとつとっても、生まれたこと自体が親が生み出した差だ。僕という人格も、起業家精神あふれる父と、我慢強い母と、ほがらかで責任感のつよい兄と、ユーモア大好きの姉を足して割ったらこんなふうになるという、みんなが生み出した差の集合体だ。
人と関わっている生きている以上、早く死のうと遅く死のうと世界に差を生み出し続けているわけで、僕たちが話す言葉や、伝える思いは必ず他の人や次の世代に残るもので、必ず意味も価値もあるものだと思う。
君はあまりにも早く人生を閉じてしまったし僕は君を助けてあげられなかったよ。だから、僕は君が生きていたことが消えてしまわないように、ちゃんと世界に差を生み出すように、君が教えてくれたことを何かにつなげて行きたいと思う。
てなわけで、今日はその友達の家に結婚式のときに撮ったビデオを届けてきマース。うーん、とても楽しそうなビデオに仕上がっておりますぞ!